自身の「いのち」を自覚することはないだろう。そもそも、「いのち」とは何かという前提が必要だろうが……。
福岡伸一『新版 動的平衡2』p8
//生物学の世界では、メディア(単数形はメディウム)とは、シャーレの中に育つ培養細胞を浸す栄養液のことを指す。細胞は、体温と同じ37℃に保温された、あたたかいメディウムの中ですくすくと育つ。
細胞たちはおそらく自分たちを取り囲む、この媒体(メディア)の存在を自覚してはいない。ちょうど水の中に棲む魚が水という媒体の存在を知らないように。あるいは、私たちが空気や重力や温度といった媒体の存在を気にしないように。//
ムシが動かなくなったり死んだりすると「かわいそう」を多用する。友達とケンカをしてしまうと、悪いことをしたと思い、うなだれる。これは、5歳児の場合。5歳未満となると怪しい場面は多くなる。他者(ヒトであろうとなかろうと)の「いのち」に触れていることの気づきはあるようだ。となれば、他者とのかかわりをより多く体験することになれば、「いのち」を学習することにつながるだろう。
「自己のいのち」との向き合いは、「おとな」になってからであろう。
〈ともだちに出会う〉は〈いのちに出会う〉と同じ
鏡に映る自己を、あかちゃんはどのように見ているのだろう。のちに気づく自己とは異なる。間主観性という表現で、およそ3歳までは母と一体なのだ。
乳幼児は〈自身を含めて、年齢の数で遊ぶ〉。0歳、1歳から自身を引き去ればマイナスまたはゼロだ。〈ともだち〉は生じず、その数値が間主観性を表す。
2歳になって、2歳-1(自身)=1人となり、1人の〈ともだち〉を得る。これは真に〈ともだち〉だろうか? 間主観性がまだ勝っているのだろう。3歳になって〈ともだち〉は2人となり、〈他者〉がその姿を現す。「心の理論」では〈他者(ともだち)〉は4歳になって自覚するという。
花を摘み、チョウを追う。カエルを初めてつかみ、つかめるようになった自分に気づく。〈他者〉とふれあうことで〈自己〉に気づかされる。〈ともだちに出会う〉は〈いのちに出会う〉と同じなのだ。
いのち の かたち for child
幼児が「いのち」に気づくということは、その「かたち」をみつけ、見(み)、さわる体験を通じてだろう。五感という表現をつかってもよいが、対象をみずからの感覚でとらえることで「いのち」は一気に身近になる。幼児にとっての「体験」は、常にこの視点が必要だ。観念(思想)としての「いのち」はこの下地があってこそ蓄えられる。
「いのち」をその「重さ」で考える
いきものを飼う・育てるは、むずかしい
(参考)非戦の研究
2022.9.23記す