||||| なだいなだ『TN君の伝記』|||

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 「人間は自由なものとして生まれた」で始まる有名なルソーの『民約論』を、当初、「印刷物」で普及させたのでなく、TN君はあえて印刷せず、訳したノートを書き写させたということです。ノートが、人びとのあいだに書き写されて広まっていったのです。

 TN君は、どちらかといえば裏方で活躍するタイプでした。というか、学者肌だったものですから、政治的な取引は性分にあわなかった、ということかな? まだ世に出る前の明治憲法にさほどの期待をTN君はしていなかったものの、出来上がってみれば「予想していたよりもわるかった」。そして、国会がいよいよ開設されるということになり、TN君は「表舞台」に出ざるを得なくなってきました。そのTN君を、作者のなだいなだ氏は、次のように表現しています。

それを実現することが、風車にたたかいをいどむドン・キホーテのようなものであることを、TN君は知っていた。(335頁)

西郷隆盛はなぜ蜂起したか?
などを例に、「自由」ついて深く考えさせる伝記

 

  • なだ いなだ
  • 『TN君の伝記』
  • 福音館書店 2002年(元版1976年)

イニシャルはTN。実在した人物の伝記小説である。作者はTNの実名を明らかにしていない。その理由は本書冒頭で説明されている。
 その人物が誰かは容易だ。「君」をつけて「TN君」とする効果は十分に発揮されているので、この本を紹介する私も「TN君」で通したい。

土佐藩、足軽の子

 さて、TN君は、1847年、土佐藩(高知県)で足軽の子として生まれた。「土佐藩」だとか「足軽の子」の出自はTN君を含めて、同時代の人びとの生きかたを制約していた。

 TN君は1901年、食道がんで亡くなる。作者なだいなだは医師でもあり、本名を「堀内」という。TN君を診た医者も堀内という名であった。TN君の伝記を書くために調べ尽くした「なだ」氏にとってTN君はリアルに感じられる存在だから、堀内医師と作者は重なり合い、「自分がTN君を診断したかのような気がしてくるのだ」(380頁)と記している。

 幕末、土佐に吉田東洋(よしだとうよう)という人がいた。

 彼は身分の上下とか家柄などに関係なく、能力のあるものは、どしどし重要な役につけた。古い制度で、能率のわるいものはあらためた。(33頁)
 この東洋という人が現れ、「土佐藩の藩立高校と思えばいい」「文武館(ぶんぶかん)を足軽の子にも入学できるようにし」、TN君はオランダ語と英語を熱心に勉強した。
 一方、東洋の改革は、世襲で恩恵を受けていた人たちの恨みをかい、文武館開校わずか3日目に暗殺される。

TN君、長崎へ

 TN君は土佐を抜け出たいと考え、猛勉強した結果、藩の留学生として長崎に行くことができたのだった。ところが期待に反して、文武館の先生よりもましな先生をなかなか見つけられなかった。

 先生さがしにくたびれて帰ってくると、寮の座敷に、一人の男がねころんでいた。若いのに頭の毛が薄くなりはじめている。その男のまわりには、TN君のように留学生として長崎にきた若者たちが、かしこまった顔で、とりまいていた。はなしをしているのは、もっぱら、その男だ。
 ──ひとのふんどしで、すもうをとる。とりなさい。とりなさい。どこがわるい。これからは、ひとのふんどしで、すもうをとる時代。わしのふんどし、ちときたないが、かりたい思うものは、かりなさい。
 彼は、ひじまくらをしながら、そんなことをしゃべって笑わせていた。(46頁)

 この男とは、坂本龍馬(りょうま)です。このときの年齢を推定してみると、TN君18歳、坂本龍馬29歳ぐらいか。(その後、龍馬は暗殺され、TN君は長崎で出会ったきりだった)

 
 TN君は、 坂本竜馬に長崎でであってから、大きく変わった。そのときから、彼もほらふきになった。TN君は、一生、特別に人を尊敬したことはなかったが、たった一人の例外があるとしたら、この坂本竜馬だ。(48頁) (本書では「竜馬」の表記になっている)

 長崎での先生さがしは不作続きだった。「なにもすることがないから、フランス語でもやってみるか」(55頁)と、たまたま見つけた看板の教授に就いて学んだが、半年ほどで先生と同じくらいに読み書きができるようになった。
 なんとかして、江戸に行きたかったTN君。龍馬が手本の身につけた「ほらふき」で、若き岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)から25両をせしめ、念願の江戸に行くことになる。

TN君、江戸へ、そしてヨーロッパへ

 「フランス学では日本一の権威だといわれていた」(60頁) 塾に入ったものの「この程度か」とすぐに失望。
 長崎で龍馬と出会ったように、江戸に向かうTN君を描きながら、なだは、幕末の大阪や江戸の町の空気を感じさせてくれる。

 ── 戦争になるな。TN君は思った。TN君は、そのころ、ラ・ロッシュに会いにきた伊藤博文や陸奥宗光に会った。通訳をしていると、彼らは目の前の問題しか考えていない。彼らから、夢というものが感じられなかった。二人は、ただフランスの動きを知りたかったのだ。もし、薩長と旧幕府とが戦争になれば、フランスがどう動くか。どこまで旧幕府方を助けるつもりか。(63頁)

 こんどは、TN君、大久保利通(としみち)に「ほら」をふいた。

 ── わしには、もう日本にいても、つくべき先生がいないんです。日本にあるフランスの本も、おおかた読みつくしちゃった。この上は、フランスに行って勉強するしかない。このわしを、いま、ヨーロッパに送る留学生に入れないと、将来の日本の損失ですよ。(71頁)

 と言い負かして、とうとう、1871(明治4)年11月12日、TN君24歳のとき、岩倉具視(ともみ)の遣欧使節団の船に乗りこみ、横浜を出た。太平洋を横断、サンフランシスコに到着。南北戦争が終わってまだまもないアメリカ大陸を横断して、ヨーロッパへ──。すんなり行ったと思えば……。
 ところがどっこい。アメリカ中西部は未開のところがたくさんあり、大陸横断は苦労の多い冒険旅行で、飢え死の危機も。岩倉具視たち首脳陣の思惑もあって、ヨーロッパに着いたのは1872年10月だった。留学生たちはヨーロッパ各地に散らばり、TN君はフランスへ向かった。

TN君、フランスで小学校に入学する

 TN君は、フランスに2年滞在することになる。日本国政府からTN君に与えられた任務は、フランスの法律制度を学ぶことであった。

 TN君は考えた。フランスそのものが動いているとしたら、ただ現在の制度だけを勉強しただけで、いったいどんな役に立つのだろう。その制度が、どうして生まれたのか、そして、それがどう変わっていくのかを知らなければ、意味がないではないか。(87頁)

 TN君の関心は、ヨーロッパの歴史や思想だった。が、さて、限られた時間で手っ取り早くわかる方法があるのか? すでにパリをはなれ、リヨンの小学校にいたTN君は入学した! 6,7歳の子どもたちと机を並べた26歳のTN君。アイデアはよかったが、「小学生たちは、さわがしく、いたずらものばかり」(89頁) 勉強どころではなかった。「小学校はあきらめたが、小学校の教科書をつかって、個人教授をうけて勉強することにした」(同頁)

 TN君の勉強方法は「外側から」視察するのでなく、「こんなふうにフランスの民衆の生活を知り、生活感覚をしだいに身につけた」(同頁)

居酒屋で、ルソーに出会う

  • 1789 年7月14日、フランス革命、起きる。
    「気がついてみると、ナポレオンが皇帝になっていた」(96頁)
  • 1815 年、ナポレオン敗退。ルイ18世が王位についたが、「憲法をつくって、国民を政治に参加させることが、王政を国民にうけいれさせるための、最低の条件だった」(97頁)
  • 1830年、 七月革命で、下院の選挙権は、25歳以上の男子、2百フラン以上の税金を納めたものに。
  • 1848年の革命で、選挙権が、21歳以上の男子すべてに。
  • 1873年、 TN君、パリ滞在中! ある日、本屋で、TN君は1冊の古本を手にしていました。「最初の1行が、目をひきつけた」(99頁)

「人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのだ」
「人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない」(99頁) (この和訳は出典「岩波文庫」と作者の断りあり)

 酒の好きなTN君は、そして貧乏だったTN君は、労働者がよく集まる居酒屋で飲んでいた。その居酒屋で労働者が、口論のときによく口にしていたことばが、この古本から鮮やかによみがえってきた。
 労働者たちは、それをルソー(上記訳文の原著者はルソー)のものと意識せず、まるで自分のことばのように叫んでいた、ということだ。

遣欧使節といいながら……

 TN君以外の留学生たちは、どこで何を学んでいたのか。のち首相に就くことになる西園寺公望(さいおんじきんもち)の場合──

 隅田川を見てはセーヌ河を思いだし、向島のしじみ汁をすすっては、オペラ座近くのカフェ・アングレのスープを思いだした。当時、有名だった、八百善の料理をつつきながら、フランス料理のことを考えた。そして、パリで出あった友人をつかまえては、パリのはなしをしたがった。(235頁)

 パーティのもりたて役として活躍したのが、津田梅子や、大山巌の夫人になった山川捨松などの女性であった。この二人は、TN君とおなじ船で出発した留学生のなかまだ。日本を出発するとき、まだお人形をだくようなむすめであった彼女たちは、そのころ、ちょうどカレッジを卒業して日本に帰ったばかりであった。彼女らは外国語を自由にはなし、洋服がぴったりの身のこなしのできる、新しい女性として、政府高官のむすめたちの先生役であった。彼女らは、ダンスを教え、西洋ふうのマナーを教え、外国語の会話を教えた。それまでの良妻賢母の女性像とくらべたら、彼女らは、たしかに新しい女性と見えた。しかし、その新しさは、目新しさにすぎなかったのである。(306頁)

 そういえば、岩倉具視の遣欧使節団についてこんなことが書かれていた。

 TN君は船に乗って、選ばれてきたものたちを見ると、首をひねった。なにしろ、国の費用をつかって留学させる学生のなかに、7歳の人形をだいた女の子までいるのだ。5名の女子留学生は、みな15歳以下だ。男のほうも例外ではない。(76頁)

歴史・表舞台のかげで……

 TN君の本領が発揮されるのは、この帰国後からだ。
 しかしながら、この本の説明に、ずいぶんと分量を使ってしった。ページ数の割合でいうと、まだ3分の1にも達していない。
 残り3分の2で、日本国内の自由民権運動、明治憲法の成立、国会開設までのなりゆきが、TN君そしてTN君とかかわりあう人たちとで描かれてゆく、そういう筋立てになっている。
 自由民権運動といえば板垣退助の名が浮かぶ。しかし、意外な板垣を知ることになる。板垣は果たして「自由な民権に」どれほど貢献したのか? という疑問が差し出されることになる。

 社会科の教科書に登場する主だった人物は、本書で勢揃いする。歴史の表舞台に立った視点、つまり「主だった人物」から見ている限り見えないものがある。 作者なだは「あとがき」で次のように記している。

  ぼくたちは、歴史を、自分たちの時代から見る。そして、権力をにぎった人たちを主役にした芝居のように、歴史を見がちになる。だから、どうしても、かげになって見えない部分、見えない人物がでてくる。明治革命をおこした人たちは、権力をにぎった人たちのかげにかくれてしまっている。でも見えないから歴史がないというわけではないのだ。
 TN君の伝記を書いたのは、君たちに、その見えない部分を、TN君の目をかりて見てほしいと思ったからだ。(388頁)

TN君のノートが、書き写されて広まったように……

 TN君も含め、この時代、立て役者のほとんどは、10代後半だ。明治新政府と意見がわかれ、反政府にまわった西郷隆盛の軍勢に加わろうと、学問をかじった当時の若者たちは血をたぎらせた。自由と平等をさとすTN君に、今こそ行動するときだと、詰め寄る若者もいた。若者が向けることばに、TN君は幾度もたじろいでいる。
 TN君のことばを冷静にきいた若者もいた。植木枝盛(えもり)、幸徳伝次郎(のちの幸徳秋水)ら。

 内容的には決してやさしくないものを、YA向けに書いた作者の意図は、今の10代・20代の若者に読んでほしいというメッセージがこめられている。
 「人間は自由なものとして生まれた」で始まる有名なルソーの『民約論』は、当初、「印刷物」で普及したのでなく、TN君はあえて印刷せず、訳したノートを書き写させた。ノートは、人びとのあいだに書き写され、広まっていった。
 この『TN君の伝記』が、このノートのように広まることを夢見たいと私は思った。

2005.10.21記す

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