||||| 新渡戸稲造『武士道』第9章:忠義 |||

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忠義

〈忠義〉は普遍の真理であろうか? 封建道徳の恥部。

 第9章「忠義」。この言葉(徳)に関しては──他の階級の人々と共通──せず、忠義は──目上の者に対する服従および忠誠──であるとする。「封建道徳」にて成立した歴史的事実であるが、民主国家・法治国家の今、これを〈美徳〉と、私は受けいれられない。

 武士道は、──国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分および分子としてその中に生まれきたるものと考えたが故に、個人は国家のため、もしくはその正当なる権威の掌握者のために生きまた死ぬべきものとなした。──では、学徒出陣し特攻兵として散った若者の死を正当化してよいか。新渡戸は、敗戦時生存していたら、同じことを批判せずして記せただろうか。私は承服できない。新渡戸に思うところがあるようで──しかし私は説教を差し控えよう。──と記している。
 この論考では、西洋との対比で、ヘーゲル、モンテスキューの名があげられる。その一方で、アブラハムが息子イサクを献げようとした話もあげられている。だが、菅原道真の逸話では、家臣の息子が身代わりとして首を差し出された。道真一族の子を命じられたが似通った子が差し出された。この首を検視し「(道真一族の子に)紛(まが)いなし」と言い放った。検視した武士は身代わりにさせられた子の父だった。──彼は家に帰り、敷居を跨(また)ぐや否や妻に呼びかけて言った、「女房喜べ、倅(せがれ)は御役に立ったわ、やい!」。── これはどうしても汚点、恥辱に思えてならない。

2019.11.18記す

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