||||| 坪田譲治「風の中の子供」を読んで |||

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 久しぶりに物語を読んだ。弟1年生の三平(さんぺい)、兄5年生の善太(ぜんた)の物語、おそらく1935年頃のこと。坂本遼『きょうも生きて』は戦後まもない1950年代前半だった。懸命に生きる親子、村の暮らし、子どもらの遊び風景、周囲のおとなたち──似たようなものを感じる。読んだのは、坪田譲治『風の中の子供』※脚註。こちらはおそらく1935年頃。父の冤罪が晴れ、母に〈服を着かえて、会社の裏の辺まで迎えに行ってなさい〉と言われるが〈それは一寸恥かしい〉。ふたりは、柿の木の上で待つことにした。
 2つの作品に共通することは多い。子どもらが逞しいと感じられて仕方がない。『きょうも生きて』は「きょう〈も〉」に表されているように、困難のなかで懸命に生きのびようとする人たち。貧しさを傍受することのできる子らの逞しさ。『風……』では、おとなの思惑に巻き込まれる子どもたち。「このあいだ片手で柿の木に登ったんだぜ。」と三平に言わせてしまった坪田譲治はどのようにストーリーを展開させていくのか。三平が、夏休みでここまで成長するとは……。タイトル「三平の冒険」と言ってもいい。
 現代の子どもに、ここまでの度胸はないだろうと思いながらも、言葉やからだで競いあい、子どもとおとなとで領分を分けあったりしているシーンは、昔も今も同じだなあと思う。

 伝承あそび(昔あそびとも言う)は、1980年代、急速に消滅している。加古里子『伝承遊び考』は、①「絵かき遊び考」、②「石けり遊び考」、③「鬼遊び考」、④「じゃんけん遊び考」の4巻からなる。絵かきや石けりは地面に絵や陣地などを描いていたので、遊んだ跡が残っていた。土のあるところはもちろん、アスファルトやコンクリート路面のいたるところに痕跡があった。描くとき、必ず歌いながらだった。子ども時代が過ぎ去っても、おとなは校歌と同じく忘れなかった。「ケンケンパー、ケンケンパッ、ケンパ、ケンパ、……」
 消えた理由の最大は、道路が走るクルマの占用となったからだ。土のある場所は経済的に”有効活用”された。加古は①②の調査を生涯かけて行ったといってよい。そして、遊びがもたらす子どもへの効用を明らかにしている。《遊び遺産》とでもいうようなものだが、けっして《遺産》の座に預けてはならないものだ。「子ども時代すべて」を遺産としてしまうことになるからだ。
 ③の「おにごっこ」は今に残る。残ってはいるが、遊びの「こころ」や肝腎処の生命線は風前の灯火だ。④じゃんけんも同様。グー・チョキ・パーの三すくみで決する物語(子どものコミュニケーション)も同様。足で行う「足ケン」は、おそらく消滅している。「ウラオモテ、テッテノテ」も……。これらについては、後日にまわして書きたい。

 なんだか大きなテーマに触れているようだ。人口減少時代に突入し、経済成長は「しあわせ」の指標では なくなってしまっている。ウクライナとロシアの状況から、経済混迷そして食糧難も現実になるかもしれない。「子ども時代」を構築しなおすことに迫られているのかもしれない。

※『坪田譲治名作選 風の中の子供』小峰書店 2005年

本田和子『児童文化』光生館 1973年 p181
//与田凖一は、「善太と三平像の与える実在感」は他の作家のいずれとも異なるとし、「自然児としての子どもが理想化に向かって抽象して表現されたもの」ととらえる。そして、それゆえに、善太三平は遊戯人であり、坪田文学の主要テーマは「あそびの描出」であるとする。与田は、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を参照しながら、善太三平を考えようとし、さらに、あそびの相による善太三平に夢想を託そうとする作者の生の姿勢に思いを馳せている。
 いずれにせよ、「善太と三平」は坪田作品を解明する鍵であり、日本の児童文学における子ども像を考察する手がかりでもある。そして、「善太三平像」を生み出した作者の意識下にあるものが浮きぼりにされるならば、日本人のイメージとしての子どもが明らかになってくるかもしれない。//

2023.9.11Rewrite
2023.9.1記す

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