||||| 児童文学のなかの児童(子ども)|||

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 坪田譲治作品『風の中の子供』を読んだあと、同じ作者『子供の四季』を読んだ。
 『子─』は文字を大きくし、子ども(小学生)が読みやすくなる配慮をしている。しかしながら、『風─』はおとな一般が読む文芸書だ。『子─』は四六判(およそB6判)約250ページ、本文が上下二段組みで文字は小さく10ポイントほどだ。中学生、高校生であっても、これを読もうとする子ども(?)はいるだろうか。坪田譲治は「児童文学」の作者として確たる地位にある。これがなぜ児童文学なのか。物語は、子どもの会話、行動で綴られ、子どもたちの機微が伝わってくる。物語の結末は、子どもの活躍あるいはその存在で導かれている。

 「児童文学」とは何か? 大きな疑問が生じた。文学を論じるほどの知識をわたしは持ち合わせていない。子どもが手にして読む気になる、読めるというものが「児童文学」のまず入り口と思うのだが、『子─』については、おとなのわたしが読んでも、読めない漢字があり、辞書を頼りにしたくなる記述がある。

 前回に引き続いてだが、──1965年を境に「現代」と「過去」とで「子ども」が変わった。変わったのは「子ども」だけでなく、あらゆることが変わった。一本の川が、1965年に別な流れの川と合流してしまった。川の流れは不思議なもので、合流して直ちに混じり合うのではない。けっこうな距離を平行して漂い、そのまま海に放流ということにもなるそうだ。
 なぜ「1965年」なのかは、内山節『なぜ、キツネに だまされなくなったのか』(講談社 2007年)に詳しい。加古里子(かこさとし)は、伝承遊びの衰退が、1970年以降に著しいとしている坂本遼『きょうも生きて』や坪田譲治作品に描かれる子どもを「現代の」子どもに重ね合わせて「同じ」でない──ことは明らかである。なぜ、こんなことになってしまったのか? わたしの、最大の関心事である。

 いわゆる「少子化問題」よりも、子どもの変化のほうが重大に思う。少子化やそれによって社会の生産性が低くなっても、十分に遊べる環境が子どもに保障されるならば、それは歓迎してよいことではないかと思う。「縮充(しゅくじゅう)」という言葉に最近 接したが、遊びの復活、子ども期の再生が「縮充」で実現するヒントになるとすれば、川の流れもまた変わるのでは、と思う。

2023.9.15記す

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