||||| 牧野富太郎と「わたしの保育」|||

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 1970年、わたしは「はたち」になる年だった。前年、今の「じぶん」は自然のなかで育てられてきたことにあると強く思い、当時、今で言うところの「環境問題」(当時の呼称は「自然保護運動」)に関心をもち日本自然保護協会に入会を申し込んだ。まだ3000人台の弱小団体だった。翌年、兵庫県自然保護協会が設立され、若い人がわたし一人という状況でもあったので、「事務局員」として活動することになった。先に「日本──」のほうで活動していたこともあって、日本で初めて行われたアースディに参加するため大阪城公園に行き、デモ行進も行った。
 さて、「日本──」はともかく、「兵庫県──」は実質、趣味の団体だった。植物をメインとした愛好家の集まりだった。わたしはどちらかといえば、物理や数学を学んでいてフィールド派ではなかった。例会を重ねるうちに、自然を守るというより、趣味の程度がますます増すようで違和感を感じるようになった。植物学最先端の学者・研究者が指導・案内してくれるのだから、極めて好評だった。72人の大型バスを貸し切り、2台を連ねるほどのときもあった。そこで知ったのが「牧野富太郎」。自然保護の考え方は「生態学(エコロジー)」や生命連鎖であって、牧野が属する形態学や博物学とは違うものだった。若かったわたしの牧野に対する印象は良いものではなかった(学生版牧野図鑑はよく使ったが……)

 一方、野鳥。鳥の研究者は、自然保護「運動」に非協力だった。図鑑の出版で有名な保育社から鳥の図鑑を出しているのは、神戸在住の研究者K氏だった。したがって、鳥の研究者たちはK氏とは連絡をとりあっていたようだが、「兵庫県──」は無視されている状態にあった。K氏の学問は、形態学であり博物学であった。牧野富太郎が大きく影響していたであろう。こういう経緯もあって、牧野富太郎の名は、わたしの求めている方向が違うという認識にあった(エラそうな言い方;汗)

 「兵庫県──」での活動を重ねていくうちに、子どもを対象にした活動を模索し始めていた。それで辿りついたのが、1973年「自然教室」の設立。自然教室では当初「小学3年生から」だったが、これでは”遅い”と思い「1年生」に下げた。しかし、これでも遅いと思うようになる。「幼児対象は」自分がこの世界に飛び込むしかない。1977年、北須磨保育センターで勤めるきっかけをつかんだ。牧野富太郎と「わたしの保育」を無理に結びつけることはないと思うが、連続ドラマが好評のようで、世間で見直されるようになると、少しは異を唱えてみようかと思った。

2023.10.1記す

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