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//この決まり文句に、正面から逆らえる人などどこにもいないのである。いきおい、みんな保守的になる。//
仙田満ほか『子どもが道草できるまちづくり』学芸出版社 2009年 p72 次につづく
//では、現場の先生方はこのことについてどのような思いを抱いているのだろうか。
このような管理的な風潮をどうお考えになりますか」//

p72
//私は8年間の道草調査の間、様々な場所で数多くの小学校で、校長先生や教頭先生はじめ現場の先生方に質問をした。その結果、質問に対する、先生方からの回答は、私の予想を覆す驚くべきものだった。
 「子どもたちのことを考えると、こうした窮屈な締め付けは可哀想だと思います」というのが回答の多くを占めた言葉であった。
 なんと、子どもたちと最も近いところで接している現場の最前線では、子どもの発達的環境を考えた場合、「もっと子どもたちを自由にのびのびと育てたい」と胸の内では思っているというのである。だがそこに「安全」という言葉が持ち出されると、もはや自らの意見など表に出せなくなってしまうのである。
 万一の事態が起こった際、落ち度を有する責任者さがしが行われることも、それに輪をかけた。//

この稿の執筆者

 日頃、子ども(乳幼児・小学生)と接している人たち、職業であってもボランティアであってもなんらかの業務であっても、自由にのびのびとの思いは共有できるだろう。子どもの安全を、業務として活動として、一番に肝に銘じ、計画を立て実行もしている。それが「万一の事態」に備えることで、思いが十分に果たせない。おとなとしての任務だけでなく、子どもはその影響をまともに受ける。
 なぜ、「自由にのびのびと」なのか? 子どもの発達に必要であると認識しているからだ。その必要なことが、なぜ実行できない? 結果、子どもはいずれおとなになるが、どう成長し、社会はどう形成されたか? 子どもの安全に意を払ったことが、社会の疲弊につながっているのでは? と、わたしは強い懸念を持つ。


p68
//「安心・安全」は、いまや独立した存在として暴走を始め、目的のための目的となるに至っている。子どもの健全な成長のためという、本来の大きな目的から逸脱し始めた「安心・安全」は、目的意識が強すぎるために、学校や親や地域を巻き込みながら、子どもに提供するには望ましくないと思われるような「空気」を地域に形成し始めている。//
p69
//ここ数年間〔2009年以前〕に、子どもが事件に巻き込まれたという報道が繰り返された。そしてそれは、子を持つ親や、地域社会を不安に陥れた。このことは、被害に遭われた関係者のみならず、わが国に住むすべての子どもとその親、そして地域社会にとってまことに不幸なことであった。//
p69
//「地域の安全」は、子どもの成長を支える環境のなかでも、最も基本的に保障されていることが求められる。このことは、戦後の都市計画のなかでも重要視されてきた。1950年代半ば以降から始まる急激な都市化とモータリゼーション進行のなかで、まちのなかからは次々に空き地や道路などといった、子どもたちの遊び場が失われていった。そして、かつての遊び場に代わるようにして、公園など一部の限定された空間での安全が確保された「子どもの遊び場」が数多くつくられてきたのだ。//
p70 //塾やお稽古事に通う姿が当たり前//になり遊びが成立しなくなった、ことを受け、
//安全が保障された遊び場であったはずの公園は、仲間との遊びに興じることができない子どもたちにとっては「単なる空地」となってしまった。同様に、「道路」も、そこに安全が確保される──実際には確保されているとは言い難いが──ことと引き換えに「遊び場」から「目的地までの通路」へと変化した。//
p70
//今、地域社会はその不安感からか、永続的な安全システムを構築しようとしているようにも見える。死角となる空間の廃止といった地域環境の物理的改変、大人による通学路の監視、不審者通報のメールシステム、小学校のものものしい警備、そして道草の禁止である。//
p70
//どのシステムも、一時的には子どもの安全確保に役立つ可能性を秘めていることはたしかだ。しかし、はたして恒久の安全が約束されるということなどあり得るのか。子どもたちの「安全のため」に創出されたはずの環境が、ある時、その意味を失い全く逆の環境になる危険性は絶対にないと言い切れるのか。この世に完全がないように、100%安全な場所をつくろうとすることは無理なはずだ。その無理を通そうとすれば、必ず歪みが生じるだろう。//

柴田敏隆:一本の棒が彼らの夢をふくらませた

p71
//下校時の道草などは、どこの学校でもほぼ校則で制限する方向にある。加えて、万一、知らない人に声をかけられたりした場合には、すぐに連絡をすることなども徹底されている。子どもは、地域に身近にいる大人たちと話したり、挨拶をすることさえも原則禁止されているのだ。
 これが現在の子どもが生きる現実の世界である。それは、暗黙にではあるが、地域に不安感や警戒心や猜疑心が満ちあふれているという情報を、子どもたちに向けて発信していることを示している。感受性の非常に高い時期に、他者への後ろ向きな感情を湧きおこす環境のなかに生きねばならない子どもたち。そして、「安全」を意識しすぎるあまりに作られてしまった目的に特化した世界。だが、それは本当に子どものためになっているのであろうか。//
p73
//子どもが巻き込まれる犯罪は、戦後の一時期が最も高かったのであり、その時期と比べると現在という世の中においては、子どもたちはより安全な環境の中に置かれていることがわかっている。芹沢らは、過去20年に遡る統計を用い、子どもたちが犯罪被害に遭い負傷したり死亡した人数に触れ、その数が、1984年の1100人超から、現在では600人弱へと減少していることを明らかにしている〔浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』光文社新書 2006年〕。しかしおそらく、市民の間にある不安感はかつてないほどの高まりを見せているのが「今」なのではないだろうか。//


上段、著者紹介の記事中にある、水月昭道『子どもの道くさ』は2006年に刊行された。
 毎日新聞2020年10月6日掲載本書の書評より
//出版当時の初版は1000部。だがタイミングが悪いことに、栃木県では下校途中に子どもが殺される事件が発生し、登下校の安全対策が大きな社会問題となっていた。水月さんのところには「子どもに道草をさせて危険な目に合わせるつもりなのか」「道草研究が何の役に立つのか」といった批判が寄せられたという。水月さんは「どういう具合に安全配慮すればよいか、などのアイデアも記しているのですが・・・」と今でも困惑気味だ。売れ行きは芳しくなく、重版はされず、絶版状態になった。//
//それから14年後。今年(2020年)の7月、ある男性が「子どもの道くさ」の中古本を何らかの形で偶然手に取り、感想をツイートした。〈子どもの通学路についてフィールドワーク研究した学者の本を読んでるんだけど、子どもが全然ちゃんと帰らなくて良い
 男性はツイートに、下校中の子どもたちが植え込みに手を入れたり、壁によじ登ったりしている本の写真を添えた。すると、このツイートが拡散された。〈防水の手袋をいいことに凍った水溜まりから鋭い氷を拾って友達同士で斬りあう。自分の幼少期の話です。共感できるかたはいらっしゃいますかね?〉〈虫食べる男子もいたなぁ。蟻とか。そして喉が渇いたら公園の蛇口で水分補給!今じゃありえないんだろうな。でも本当に楽しかったな
 この「バズった」状態に、水月さんも気づき、さっそくこんなリプライ(反応)をした。ちなみに「ニャ」は、昨年死んだ愛猫への思いからだとか。〈よいお話をありがとうございニャス!〉〈田舎での道草が減っていて問題と思っています!ニャ。少子化および学校の統廃合で恐ろしく通学範囲が広くなっていて、スクールバスでドア・トウ・ドアの状況ニャンですよ・・・〉//
//その後も反響は続き、リツイートは約2万5000、「いいね」は12万を超えた。
 水月さんのツイッターアカウントには「(本を)読みたいのですが、どこで手に入るのですか」という声が次々と寄せられた。//
※発行元の出版社・東信堂は増刷を決定し翌月8月から販売された(いまは完売)。


p73
//こうした実際の社会安全の状況とは大きく乖離して不安意識を増大させる社会のことを、前掲書の著者である芹沢らは非常に深刻な問題として捉え、「データに基づかない『神話』に過ぎない」と指摘している。だが、それでも市民感情のレベルでは、現実に確保されているはずの「安全・安心」がそこに確かにあるにもかかわらず、なぜだか大きな不安を感じてしまうという、矛盾した状況が続いている。
 実際には、治安は悪化などしていないにもかかわらず、感覚的には治安が急激に悪化しているように感ずる。芹沢らが唱えるところの、現実と乖離して体感的に獲得されている「体感治安」の悪化に踊らされるように、地域も学校も保護者も皆、「安全」のための自己犠牲を強いられる状況に生きている。そして、それを拒むことは誰にとっても難しい状況が生まれている。//

 大災害や新型コロナウイルスによるパンデミックなど国民生活で混乱が予測できるとき、適正だったかはともかく、政府はそれなりの広報を行ってきた。世論を指揮したわけである。そうであれば、子どもをとりまく治安について、上記の記述に基づけば、なぜ、地域・学校・保護者に安全であると広報しないのか? 勘ぐれば、安全でない、つまり、地域や学校や保護者が 自助努力として” 治安を守る方向に状態を維持継続しておくことが政府にとって都合が良いからではないか? 好んで、政府は安全宣言をしない……、ということか。

p74
//こんな状況のなかで生きなければいけないとすれば、それは子どもにとっても大人にとっても不幸なことなのではないだろうか。子どもの発達環境に直接関わっている人たちが、その発言権を封じ込められがちな風潮も拍車をかけていると思われる。
 校長先生や教頭先生などの教育関係者への数度のインタビューからは、「現在のような監視や子どもへの行動抑制を求める環境での子育てが、決して子どもたちにとってよい環境であるとは思えない」という意見を頂くことが少なくなかった。//

p75 //市民は、確かな情報や知識のない中で、ただ「体感治安」の悪化に怯えながら、「安全・安心」を実現しようと見回りを繰り返さざるを得ないのである。子どもも大人も地域社会も、はたしてそれで幸せと言えるのだろうか。//

2023.12.2記す

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