||||| 5歳と93歳 |||

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 3年前の2020年9月、93歳(2023年)の入江一惠さんと、東北・石巻で行動を共にした。東北大震災被災当初から入江さんのグループ(高齢者配食ボランティア:NPOひまわり会)は福島と石巻の保育園2園に支援を続けていた。けれども、まだ一度も現地に行ったことがない。死ぬまでに行きたい。と、たっての願いで実行にこぎつけた。
 目も耳も健在。当時は、何十キロものバーベルで健康体操を行ってもいた。少々足(膝)が痛いと言っていたのでシルバーカーを勧めていたこともあったけれど……。
 昨年(2023年)春、配食センターで転倒し救急搬送となった。同年秋、配食センター20周年を迎え、お祝いの挨拶を行った。事業は後継に引き継がれていたが、”引退”がより身に迫ってきた。
 ご自宅での会話。
入江さん「これから、どうしょうかね~」
わたし「ひとつのことに区切りをつけたら、新しいことを思いつきそれが始まります」
 この人の性分だと(なにもしないはずがない)と心底わたしは思った。一般的には、区切りをつけられるかどうかが、むしろ課題なのだ。

 ”事(こと)”には、始まりと終わりが「ある」。だから、周年記念が行える。5歳児と遊んでいると彼らは「やりたい」ことばかりだ。じっとしていることがない。始まりの繰り返しでエンドレスだ。標高300メートルの山を登り切り、着いた!と思えば、山頂で追いかけっこが始まる。入江さんと向き合っていたら、ふと5歳児の子どもが浮かんだ。人間死ぬぎりぎりまでエンドレスなのだ。いや、「生きている限り」と言い換えたい。自分の死は知り得ないのだから、「やりたい」思いはいつまでも続く。

 4歳児、3歳児はどうか。一緒に遊んでいると楽しい。癒される。「やりたい」というまなざしを感じる。あかちゃんが這い這いしながら、何かを目指している。そして、ふと思った。”じぶん”の始まりを知ることはできない。人間は、自身の始まりも終わりも知らない。しかし、生きている所作については、「始まり」をつけなければならないし、その「終わり」も決めなければならない。進学や就職は他者との関係があるので、始まりと終わりは必ずしも自分で操作するのではない。他者がかかわる。わたしは大学を中退したので、止めるについては自分で決めた。

 脳のワーキングメモリは無限どころか極めて限られているらしい。脳の空間利用はすぐに満室となる。つまり、ON/OFFのコントロール次第である。可能な限り、あるいは努力して、メモをするなり、気になる作業はとりかかったほうがよい。5歳児がじっとしていられないのは、見方を変えれば、ワーキングメモリを開放しようとしているのかもしれない。
 おとなは5歳児に比べ、のんびりしている。ワーキングメモリを多く持っているからかもしれないが、”こと”には終わりがあることを悟り、人生の節々で区切りを意識的につけたほうがよいのかもしれない。

2024.1.1記す

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