「遊びの起源」を探求しているときに「主体論」にたどりついた。そのため、この二者の包含関係でイメージしていることを表しておこう。明解に図示したつもりなので説明は不要であろう。「遊びの起源」は「主体論」と一体であって、隣接したり近接するものではない。「主体論」は「遊びの起源」のすべてを包含する。遊びは、主体成立のためにある。
チョムスキーの句構造(木構造)は言語理論で説明されているが、チョムスキー自身が言っているように言語だけではない根源的諸特性を推測させる。句構造(木構造)は「分岐」が原理の中核にある。「分岐」が伴う構造を、ヒトは生得的にもっているということだ。
食欲、排泄は、「快/不快」に含まれる。他者≠非自己。「♂/♀」「自己/非自己」は新生児期より遅れて認知されるとし、グレーで表記した。「無音」は「音」を認知することの対比である。同じく、「不動」は「動」を認知することの対比である。「無音」「不動」を直接に認知するものではないとしている。「♂/♀」は生殖につながる。「自己/非自己」は他者理解につながる。
新生児室の明るさを調節することで授乳量が異なるという。乳幼児は音のする方向に頭を向ける。音が出るおもちゃに関心を示し、動くものを注視する。這うときは、動くものを追いかけようともする。いわゆる五感で説明可能な動作である。これらは生得的と捉えて問題ないであろう。
図1はチョムスキーの句構造(木構造)をイメージしたものだ。これに、わたしは「主体仮想センサー」と名づけてみた。分岐をもつ、言語理論では主語/述語の関係を示すモデルだが、チョムスキーが言うところの根源的諸特性を上記事例の「明/暗」「音/無音」……で説明可能ではと考える。「暗、無音、不動」は新生児の場合、意識として顕著ではないとしても、機能として働かないか機能不十分でありながら、分岐(対概念)構造が備わっている、ということではないか。主体形成が進む過程ということである。
※「主体仮想センサー」を発想!
※ 主体仮想センサーの思考実験
生理的認知が言語の発生や獲得に必要であろうことは容易に推察できる。言語の発達はやがて感情表現を伴う。他者の理解は4歳を待つことが必要とされ、感情は7歳になってようやく揃うとある(感情表現については個人差が大きいようだ)。この4歳あるいは7歳までの過程で、幼児は「遊び」を通して、さらに言葉を獲得し、人間関係の理解を深めることになる。
ただし、遊びの起源や発達については、レヴィ=ストロースが言うところの「見る(ブリコラージュ)」に重要なポイントがあり、「見る」ことと主体仮想センサーは不可分の関係にあることをさらに述べたい。
間主観性について述べたい。主体仮想センサーにおいて、自身の意思が、自身にうち(内言)で未発達であるとき、つまり、分岐構造の一方が機能不十分であるとき、この埋め合わせで関与するのが間主観性で対象になる”相手”である。言い換えれば、主体仮想センサーの「安定」は、間主観性の対象によって埋め合わせられ、保障される。
生殖によって、子孫を増やし、種を保存し継続を行う。哺乳類どころか下等動物において必須の行為である。こうした生得的生殖が下等動物にも見られるということは、分岐を伴う主体仮想センサーが下等動物にも存在するということであろうか。チョムスキーは、言語がヒトにのみ備わったことは”偶然”であると言っている。主体仮想センサーにどのような機能が付加されるかは、シロートには考える根拠をもたないが、「快/不快」「明・音・動」は哺乳類一般にあるのではないかと思う。ヒトを除けば、言語を伴わないから「快/不快」を感情でもって表現することはない。
▶ ここより「遊びの起源」へ
視覚障碍者の言語獲得は点字の習得にある。年齢のある段階を境に点字の習得は容易でなくなるという。いわゆる臨界期が生ずるという。したがって、中途失明者は点字の習得に難儀するという。これらは脳神経科学において解明され、脳神経の機序で説明が試みられている。
さて、その機序において、チョムスキーの言語理論によれば、視覚障碍者においても(手話の習得過程においても)言語の働きが生得的であるとするのであれば、句構造(木構造)別な言い方をすれば主体仮想センサーは、生得時のみならず後年において働いていることを伺わせる。
明和政子『心が芽ばえるとき』NTT出版 2006年
p45
//ヒトの赤ちゃんは、生物的なものと非生物的なものを区別できる能力、とくに「ヒトらしい」刺激を選びとる能力を生まれながらに持っているらしい。//
2024.8.11記す