酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』読書メモ
酒井邦嘉 編著『脳とAI』
子ども(乳幼児)の言語獲得が生得的かそうでないのかの見極めがこのページの目的だが、言語学を極めたいというものではない。生得的と見込めるとき、その根拠を可能な限り収集しておく。仮説に対しては専門筋で異論があるのは当然である。これも反映させる。
「生得的の可能性」を支持できる見通しが立てば、言語機能からの発想を展開したい。
認知症と失語症は同時に伴わないとされる。このことではなく、認知症が認められても会話(コミュニケーション)は成立する(会話の内容は問わない、失語状態など)。日本人であれば日本語で認知症になっても会話は継続可能である。言語の生得性を説明するに足る脳神経機能と認知症の機序は別ということだろう。
ノーム・チョムスキー/黒田成幸『言語と思考』松柏社 1999年
チョムスキー:1993年講演「言語と思考」
p23
//子供の言語は「心のなかに育ってくる」のですが、これは視覚システムが双眼視の能力を発達させるとか、あるいは一定の成熟段階で子供が思春期にはいるのと同様なのです。言語獲得は、一定の環境に置かれた子供に生じるものであって、子供が行うものではないのです。//
p43
//デカルトが結論付けたように、言語機能は、かなりの近似として、人間の共通の属性であり、必要不可欠な点で、明らかに人類に特有なのです。少なくとも、およそ類似したものは生物界には見つかってはいません。言語機能の「初期状態」は、遺伝的資質により決定されているのです。言語機能は、経験による引きがねと(周縁的な部分の)成形とをうけながら、一連の状態を経て、だいたい思春期のころには、比較的安定している「定常状態」に至り、後には周縁的な点でしか変更はありません。//
p78 場内の質問を受けて──
//わたしが言及した二つの例を考えてみてください。一つは、子供たちが一定の年齢に達すると思春期を迎えるという事実。もう一つは、子供たちが四歳で両眼視〔※〕をやってのけるという事実です。さて、これらを事実とします。誰もが想定しているのは、それも、わたしの印象ではほとんどわかっていなくともですが、これらはなんらかのかたちで遺伝子により決定されている、ということです。しかしながら、これら二つの事実と分子とのあいだの隔たりの広漠としていることといったら、生成文法と分子との隔たりと同じです。発生学の問題を考えると、たとえば、ニワトリの翼がまさにあのように発生するのはなぜかを考えると、非常に興味ある記述的論評がたくさん出てきますが、一般理論に繋がるものは実に少ないのです。タンパク質を越えると理解が心許ないものになるのです。//
※両眼視
明和政子『心が芽ばえるとき』NTT出版 2006年
p18
//私たち大人は、両眼から得られる情報を統合させて、三次元の空間、つまり奥行きを感じている。こうした両眼視力の調整による知覚は「立体視」と呼ばれている。生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ奥行きを感じていない。両眼からの情報をうまく調節して、自分の身体から「遠い-近い」を目で区別できるようになるのは、生後4カ月頃だという。その後、5~6週間かけて、赤ちゃんの立体視は急激に大人のレベルへと近づいていく。//
「刺激欠乏論法」:普遍文法の存在証明
──言語獲得は生得的である── の、証明……チョムスキーによる
ノーム・チョムスキー/黒田成幸『言語と思考』松柏社 1999年
p104 黒田成幸「文法理論と哲学的自然主義」
//人が特定の言語を自然に獲得するには勿論その言語についての入力情報を何らか必要とする。これが初期データです。しかしこの情報は獲得された言語の構造の性質からすると、質・量ともに非常に貧弱なものである。それからだけでは、如何に優秀な研究者が理論理性を如何に有効に働かせてもその言語の文法を推し量れるものではない。従って幼児は生まれながらにして人が獲得する文法についての豊かな情報を持っていなければならない。この生得の情報がすなわち普遍文法です。そして今の議論がチョムスキーが言う「刺激欠乏論法」(poverty of stimulus argument)による普遍文法の存在証明というものです。//
p97~99 図式化
初期データ → 普遍文法 → 個別文法
文法研究データ → 理論理性 → 個別文法
初期データ → 普遍文法(言語獲得者:幼児)→ 個別文法
p105
//われわれ言語学者がゼロ代名詞があるといっている現象です。これは主語でも目的語でも文脈から分かっているときはそれをことばにだして言わなくてよいという性質です。日本語ではそうしたことができる。英語やドイツ語フランス語ではそういうことはできません。//
p107
//普遍文法は人の脳/精神という実在するものの一つの部分というか組織というか系systemというか、とにかく実在の一つの形態である。それについての検証的理論科学が言語理論である。//
p108
//生成文法論というのは、個人の言語はこの普遍文法が特殊化されて脳/精神の状態として実現していると考える言語観であります。//
ドイツの乳児は、ドイツ語の抑揚で泣く。
ノーム・チョムスキー / ロバート・C・バーウィック
『チョムスキー言語学講義 言語はいかにして進化したか』
p7
//人は泣きながら生まれてくる。その泣き声は言語のめばえを知らせるものだ。ドイツの乳児はドイツ語の抑揚で泣く。フランスの乳児はフランス語の抑揚で泣く。これはどうやら胎内で獲得するもののようなのだ。生後ほぼ1年以内に、子どもは母語の音声システムを身につけるようになる。そしてさらに何年かが過ぎると、そばにいる人と会話をしている。どんな人間言語でも獲得するという、ヒトという種が持つこのすばらしい能力──”言語機能”──は、ずっと以前から重大な生物学的問題を投げかけている。たとえば、言語の本質とは何か。どのような働きを持つのか。どのように進化したのか。//
生得説を指示!
ウィリアム・オグレイディ『子どもとことばの出会い 言語獲得入門』研究社 2008年
※本書の最終章「第7章 言語習得の可能性」(p187-225)より
p191 〔言語獲得〕//模倣ではない理由//
//つまり、子どもは耳にしたことをすぐ繰り返すこともあるが(おとなも同じことをする)、特に文の働きを理解するときには、模倣はあまり大きな割合を占めないようである。子どもの言語習得についての理解の手がかりは明らかにどこかほかにあるのである。//
p193 〔言語獲得〕//教えているのではない理由//
//つまり、教えるということは、言語習得に重要な影響を与えるほど、頻度が十分でもなければ、有効でもないということである。//
p201
//文化の中には子どもが自ら文を産出できるまで、会話の相手として認められない文化さえあるようだ。そのような子どもたちにとっては、言い換えをしてもらえるのは、あってもまれなことで、まず望めないことであるが、それでも彼らは何ら目立つ遅れや困難もなく自分の言語を習得しているのである。
そういうわけで、言い換えは有効であるが、必要なものではないようである。子どもは言い換えやその他の教えがなくても言語を習得できるようである。//
p201
//言語獲得に親が寄与する方法の1つとして、子どもに話しかける際の特殊な話し方があるのではないか、ということがある。「母親語(motherese)」と呼ばれるものである。このタイプの話し方の特徴は、ゆっくりであること、気をつけてはっきりと発音すること、基本的な語彙項目を使用し、短文で、やや誇張したイントネーションであることである。//
p202 //母親語は役に立っているのか//
//おそらく、役に立ってはいるだろう。//……//言語獲得の早い段階で非常に理解しやすい発話の中に身をおくことが、害になるはずがない。
しかし、それは母親語が言語獲得に必要不可欠だということではない。実際、私たちは母親語が必要不可欠であるはずがないことを知っている。母親語があったとしてもほとんど使用されない文化やコミュニティが存在するからである。//
p204
//では、どんな状況でも子どもはことばを習得できるのであろうか? そうでもない。言語獲得が可能になるには満たされていなくてはいけない外的な条件が少なくとも1つある。子どもは習得しようとしている言語について多くのことを知らなくても、彼らが理解できる文を耳にする必要があるのである。//
p206
//私が「人間の脳」というとき、それはDNAに組み込まれている指令通りに構築されている脳を意味する。それは言い換えると、ことばの能力は遺伝子的に受け継いだものの一部であるということである。そうであるにちがいないとする証拠が数多くあり、もっとも明白な証拠は言語の障害から得られたものである。鍵となるのは、もし言語に関する能力が生得的なものだとすれば、生得的な言語障害もあるはずだという考えである。//
※以下、言語障害の事例があげられている。
(1) //一卵性双生児の研究// p206
(2) //養子縁組によって一緒に住んでいる親族よりも、生物学的な親族のほうに近いのではないかと予想されるからである。// p207
(3) //特定の遺伝子〔FOXP2〕にかかわる言語障害の事例// p207
p209
//今ここで、獲得装置について考えるべき重要なことは、そのような部位とはどういうものなのか、そしてそれはどのような働きをするのかということに焦点を当てることである。ここには2つの相対立する見解がある。//
※見解1://獲得装置は言語のためだけのものである// p210~
※見解2://獲得装置は言語のためだけにあるのではない// p214~
◇
※※生物界でヒトだけにみられる言語機能について、チョムスキーは //進化の過程で、脳にたまたま// 生じたとしている(酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』p58ほか)。その”たまたま”については、山極寿一の議論を援用すれば、53万年《(60-7)万年》の空白を埋めなければならない。言語獲得装置が生じるその前史には「主体」という”意味”の起源が潜んでいるように、わたしは思えてならない。したがって「見解1」でもなく「見解2」でもない。 ▶主体仮想センサーの思考実験
※包含関係 脳(からだ全体:感覚機能)≧ 主体仮想センサー群 > 獲得装置(一部に言語機能=普遍文法)
p210
//ノーム・チョムスキーの説がそうであるように、獲得装置にはあらかじめ(すなわち、先天的に)備わった文法が含まれているとされる。この文法は一般的に普遍文法と呼ばれているが、それは、文法範疇と原理の類から構成されるこの文法がすべての言語に共通するものだからである。
そのような体系をもって生まれてくることで、子どもは言語習得に関して最初からとても有利な条件をもっていることになる。//
生得説に言及こそしていないが……
赤ちゃんの超言語力
P.K.クール(ワシントン大学)
別冊日経サイエンス no.232 2019年
p61
//幼児はみな生まれながらにして
世界に7000ある言語のいずれをも習得する能力を持っている//
p62
//誕生時の赤ちゃんは、世界の言語に800種類ほどある「音素」をすべて認識する能力がある。この音素がつながって、あらゆる言語のすべての単語が構成されている。生後6カ月から1年の間に、子どもの脳で秘密のドアが開くことが私たちの研究から示されている。神経科学でいう「敏感期」に入ると、子どもは言葉という魔法の最初の基礎レッスンを受けられるようになる。
子どもの脳が母国語の音を最も覚えやすくなる時期は、母音については生後6カ月、子音については9カ月ごろから始まる。敏感期は2~3カ月しか続かないが、第2言語の音に触れるとさらに長くなるようだ。子どもは7歳までに第2言語を覚えてかなり流ちょうに話せるようになる。//
生得説を否定!
普遍文法は存在しない
P.イボットソン/M.トマセロ
別冊日経サイエンス no.232 2019年
p67
//人間の脳には文法を学ぶための”ひな型”が組み込まれている──マサチューセッツ工科大学のチョムスキーが提唱したこの有名な「普遍文法」仮説は過去半世紀近くにわたり理論言語学を支配してきた。だが近年、多くの認知科学者と言語学者はこの説を放棄している。様々な言語を数多く調べた新研究と、幼児が母語の理解と話し方を学ぶ方法を調べた研究がなされたが、それらはチョムスキーの主張を支持していない。
代わりに、まったく異なる見方が示された。子供が母語を習得する過程は生得的な文法モジュールによるのではない。子供は言語だけに特異的とは限らないようん思考、例えば対象を分類する能力(人と物体の類別など)や物事の関係を理解する能力を用いていることが示された。これらの能力が、他人が何を伝えようとしているのかを把握するという人間特有の能力と相まって、言語を可能にしている。この新発見は、人間の言語習得を本当に理解しようとするなら、チョムスキー説とは別のところに指針を求める必要があることを示している。
この結論は重大だ。//
p70
//これらすべてを考慮すると、普遍文法の考え方は明らかな間違いであるという見方に必然的に行き着く。//
※p67~72に収録。
小山正/編『ことばが育つ条件』培風館 2000年
p8
//表出語彙が50語程度になると、ことばとことばが結びついた2語発話がみられるようになる。2語発話の出現は、子どもが世界を分節してとらえ始めたことの現れであるとともに、ことばとことばの関係がわかってきたことにもよる。すなわちシンタクス(syntax)の発達である。
今日の言語発達研究においては、シンタクスの発達には生得性が高いという考えが優勢である。しかし、ことばとことばを結びつけて話し始めることにはかなり個人差がみられる。また、村井〔※〕は、言語生得説の立場に立つチョムスキー(Chomsky,N.)は、障害のある子どもの言語発達をみていないことを指摘している。したがって障害のある子どもの言語発達を考える者は、生得説の立場には立てず、障害のある子どもの言語発達資料の分析を通して彼らの言語発達やその指導の問題を考えていく必要があると、村井は述べている。//
※村井……//編者小山の恩師である故村井潤一先生(元京都大学大学院人間・環境学研究科教授)//「本書まえがき」より
小林春美・佐々木正人『新・子どもたちの言語獲得』大修館書店 2008年
p25
//ピンカーによる言語の生得性の主張を批判するベイツやトマセロにしても、生得性をまったく否定しているのではないことに注意する必要がある。ベイツは、人間だけが言語を完全な形で獲得できることを考えると、言語の生得性はあるレベルにおける分析では真実でなければならない、と述べている。トマセロもまた、人間は言語獲得を可能とするように生物学的に準備されている、と述べている。いずれも生得的な能力の存在をはっきり認めているのである。しかし、何が生得的かを特定することには消極的で、言語は「あるレベルの分析において生得的」とか、あるいは言語は「生物学的基礎のより一般的な部分に根ざす」というように、漠然と述べるにとどまっているようだ。//
2024.8.20記す