||||| 4+:主体論 ── 保育(子育て)に(業務で)かかわるおとなを視野に |||

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主体方程式(1
主体ガラス(2
主体意識の関係:主体とは何か(3
間主観性(4
主体仮想センサー(5
「こども」とは、だれか?(6
子どもの「遊び」について:そして、子ども期の再生(7
利己的でありながら、利他的であろうとする主体:意識の観点(8:終

1. 主体方程式 (snx・snx):(sny・sny + snz・snz)

 主体を重んじる──この「主体」はだれであろうか。自身(自己)であるときも、他者であるときも、ある。
 自己の立ち位置からは、他者は「みえる/さわれる主体」である。それを「れる主体」と、してみた。自己は他者に「主体」を見出す、発見する。
 一方、「主体という意識」を自意識と言ったりもする。自身(自己)に主体感があるから「主体の認識や理解」が可能になる。自己においては、ときにあるいはしばしば、自覚を伴わない内心が生じる。自己を主体の対象とするとき、関係性で表される「られる主体」と秘めたる「内なる主体(主体核)」がある。

主体方程式 (snx・snx):(sny・sny + snz・snz)
等式では結べない、相関(:)で表す。

主体変数snを s0 , s1 とする。オン/オフの2つを値とし、 s0=オフ=0 , s1=オン=1

1)新生児 (s1x・s0x):(s0y・s0y + s1z・s0z) ||| xxyy+zz
1)── xは母(母を必ずしも特定しない。母ほかを起点として間主観性の対象は多岐に進む)との「間主観性」が成り立っている。
2)1年2月 ||| xxyy+zz
2)── xxは他者(「他者理解」ではない)への関心が盛んであることを表す。ゆえに、主体仮想センサー生成の起点となる。
3)2年6月 ||| xxyy+zz
3)── zz主体核が安定し、▶ 主体仮想センサーが作動する。よって、「間主観性期」を脱する。
3-2)…… ||| xxyy+zz
4)4年n月 ||| xxyy+zz *確立
4)── yyが確立。「心の理論」がいうところの他者理解に達する。
5)7年n月 ||| xxyy+zz
5)──「おとな」への移行期。即ち、「こども期」を脱する。
6)9年n月 ||| xxyy+zz
6)──「おとな」に到達。
7)25~30年 ||| xxyy+zz
7)── 脳神経の発達”完了”はこの頃とされる。
8)80年 ||| xxyy+zz
8)── つまり、ヒトの一生は4年x月以降、変わらない。

 「1年2月」「2年6月」を目安としながらも、前後2月程度の個人差がある。「n月」は1年未満程度の個人差がある。
 各期の年月を設定できる理由はさまざまであるが、その内容(学説や理論等)は一致しているとは限らない。一致していないものの、画期は認められる。発達の過程が不明確であっても、不確定性原理で画期区分を行った。

自閉スペクトラムを想定
1)…… ||| xxyy+zz
2)…… ||| xxyy+zz
3)…… ||| xxyy+zz
4)…… ||| xxyy+zz
5)…… ||| xxyy+zz
6)…… ||| xxyy+zz

 自閉スペクトラムは他者理解における障碍といわれる。モデルを想定してみた。モデルが不足しているかもしれない。とりわけ「xxyy+zz」がどういう状態でそれが何を意味するのか。

ある認知症の場合
1)…… ||| xxyy+zz
2)…… ||| ……

 「xxyy+zz *確立」していたものが、他者(x)がわからなくなる。つまり、自己(y)認識に異常を示す。おそらく zz は維持されているのだろう。とはいうものの、さらなるモデルが書けない。

2. 主体ガラス

 宇宙はビッグバンに始まった、とされる。爆発的ビッグバンの起源には、原子など生命体を構成するものはまだなかった。やがて原子が出現し、水を構成する分子も現れ、酸素もなかった地球に生命の起源が生じた。
 いのちの誕生とそれにつづく再生産・いとなみは固有の「いのち」を表現するようになり、生と死のドラマは「主体(者)」が演じるようになった。

 もしかして、いのちの誕生とは、悠久のすきまにガラスのようなスリットが差し込まれる、あるいは、ガラスの結晶体が生成されるということであろうか。──「主体ガラス」と名づけてみた。

 主体ガラスの発生そのときは「すりガラス」であった。すりガラスはやがて鏡面をもつ。すりガラスを自己になぞらえれば、鏡面に映し出されるのは他者である。
 ガラスは壊れやすいように思えるが、鍛えられ、いつの日か、鉄ほどの強度をもった。鏡面には過去が映し出され未来が映し出された。すりガラスなのか鏡なのか、透明感のある「カガミ」なのか……。宇宙空間のある場所でカガミは存在感を示していた。
 そして、やがていつの日か、すりガラスに回帰して役目を終えることになった。

3. 主体意識の関係:主体とは何か

 「我思う、故に我あり」と言ったデカルトのように、思うわずらう意識の所有者を我としている。この「我」こそ主体であると主張している。ただし、デカルトは、意識が発生する箇所を脳としない二元論の立場だ。少なくとも、意識と主体はイコールで結べるようだ。
 その「意識」について、「意識の起源」を考察している人たちがいる。
1)ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』
2)クリストフ・コッホ『意識の探求』ほか
3)ジュリオ・トノーニほか『意識はいつ生まれるのか』
 さらに、言語の働きと意識に言及されるが、意識は必ずしも言語が伴うとは限らないともある。脳神経科学において、意識や心の問題は解決していない最大の課題とされている。
 ヒト(人間)だけでなく虫にも意識があるという研究と科学的根拠も示されている。ノーム・チョムスキーは、人間の言語獲得は生得的であると主張している。虫にも意識があるとすれば、「主体」の基礎的概要は生得的に備わっていると考えなければならないのかもしれない。つまり、「主体とは何か」を考えるとき、生得的を根拠として、「新生児の主体」を表す主体方程式「xxyy+zz」をわたしの起点としたい。

4. 間主観性

保育所保育指針
//一人一人の子どもが、周囲から主体として受け止められ、主体として育ち、自分を肯定する気持ちが育まれていくようにする。//
2017年3月31日厚生労働省告示…第1章 総則…第2項 養護に関する基本的事項…第2号 養護に係わるねらい及び内容…イ 情緒の安定…(ア)ねらい…③〔上記、「主体」を含む条項〕

 保育所が受け入れる最少年齢は0歳2か月または0歳6か月頃だ。したがって、指針の定めにある「主体」は0歳児にも適用される。0歳児の主体と5歳児の主体、実際の現場では、どのように区別して応じているのだろうか。
 たとえば、0歳児から2歳児までのクラスは「担当制」と呼ばれ、3歳児以上とは区別されていることがある。それは、間主観性期というこの年齢期間を特色づけていることにあるのだろう。
 「間主観性」という言葉は直感的に理解できない。同じ意味で「間身体性」というのもある。いずれも哲学者が命名し、intersubjectivity に日本語訳をつけたところの学術語だ。「間主観性の考え方で担当制を採用しています」と保護者に説明している保育所(園)は、おそらくないであろう。2歳児に「せんせい、あしたおやすみするからね」と語れば、子どもはうなずくしぐさをする。果たして、その翌日、当の子どもは担当の先生をさがす動作をみせるだろう。複数担当制でこの難を逃れる。

M.メルロ=ポンティ『大人から見た子ども』みすず書房 2019年
p194
//他人知覚においては、私の身体と他人の身体は対にされ、いわばその二つで一つの行為をなし遂げることになるのです。//

鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ 間主観性と相互主体性』ミネルヴァ書房 2006年
p12
//二者の身体が意識することなく呼応し、そこに相互的な、相補的な関係が成立するという間身体的な関係(メルロ=ポンティ)の次元//

 新生児に始まり、2歳半までの間、主体核zzと他者xx(母、保育士など)は二者の身体は意識することなく呼応する。これが間主観性であり、この期間は間主観性期となる。この期間後半は、主体仮想センサーの生成期であり、zz主体核が安定するに至って間主観性期を脱する。鏡に映っている向こうの像を「わたし」と思うようになる頃でもある。

5. 主体仮想センサー

 「主体仮想センサー」はわたしの造語である。主体論に辿り着くまでは「ハートスケール」と称していた。チョムスキーが導く言語生得理論を学ぶうちに、その言語生得過程がハートスケールと似ていると思った。あくまでわたしの思いで似ているのであって、近似でも相似でもない。わたし自身の戦略として、ハートスケールから主体仮想センサーに乗り換え、整理したいと思った。

 ハートスケールで述べているが、「こころのモノサシ」という意味である。主体を獲得または確立するにあたって、つまり主体核zzが安定することで、その運用が始まる。言語の生得性を受け、母語が運用できるようになるのは、主体核zzの安定運用によっていると仮定している。

 主体仮想センサーを思いつく前は「主体センサー」であった。チョムスキーが言語の文法中枢を木構造で説明しているように、一方で言語獲得が主体形成と結びついているように、主体確立のために「主体センサー」があってもよいのでは?と思った。だが、どうもしっくりしない。煩悶しているうちに、そうだ「仮想センサー」にすればよいと思い直し、「主体仮想センサー」に至っている。
 文法中枢については複雑系で説明されようとしている。「意識」も同様である。主体の生成そして安定過程も同様、複雑系で説明できればいいなあと期待している。

主体仮想センサーの思考実験

6.「こども」とは、だれか?

 保育に従事している者は、ゼロ歳と5歳児どころか、1年ごとに成長する子どもを十分に認識している。しかし、世間一般は、5歳の幼児も、小学1年生も、3年生も、6年生も、さらに中学生も「こども」と呼ぶ。高校生を子どもとは思わないだろうが、「おとな」としての待遇を行うだろうか。
 十把一絡げに「こども」で済ませてもらっては、困るのである。

 保育指針を持ち出すまでもなく、子どもの「主体」を探求することが、わたしの関心事である。

▶ 「こども」とは、だれか?

7. 子どもの「遊び」について:そして、子ども期の再生

 ここでいう「こども」は乳幼児である。わたしは、小学2年生までを「幼児」としている。乳幼児期に遊ぶことが「主体」の確立へと大いに貢献する。言い方を変えれば、遊ぶ機会を失う、あるいは、遊びの内容によっては、「主体」を十分に確立させることができない。その「内容」とは「つまずき」にある。遊びを通して無数のつまずきを、子どもは経験し、それに対処していく。この学びが貴重で、かけがえのないものである。

 これを前置きにして、果たして、子どもは十分に遊んでいるのであろうか。つまり、つまずきを十分に経験しているのであろうか。

いつから「おとな」で、遊びを考える。

 「つまずき」体験の方法を見つけた! このことが、子ども期の再生につながると期待している。

4+ カルテット・プラス

8. 利己的でありながら、利他的であろうとする主体:意識の観点

 脳神経のしくみや働きを学んだからといって、「意識」の機序がわかるわけではない。こころや意識の生成については、まだ未解明である。しかしながら、昆虫はともかく、ゴリラやチンパンジー、あるいは、犬や猫など哺乳類の子育てや危険回避のしくみは脳の働きであり、ヒトの脳もその痕跡が引き継がれている、という。
 地球上でヒトが子育てを行っているのは、日本など近代化されたところばかりではない。未開地とされる先住民の子育ても日本人のそれも同じ過程を歩む。「いのち」の平等、大切さに思いを寄せるには、脳神経の理解が助けになる。
 「いのち」そのものに向きあうことも重要である。わたしは、福岡伸一が主張する動的平衡にひかれる。「いのち」を理解できる範囲で認識を深めておくことは、「主体」の理解や認識を地に足を着けたものにするだろう。それは、とりもなおさず生き方に通じ、自己と他者双方の主体理解を確かなものにするだろう。

リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』紀伊國屋書店 2018年(40周年記念版)
p247
//私の議論から人間的なモラルを引き出すとすれば、次のようなものとなるだろう。私たちは、子どもたちに利他主義を教え込まなければならない。子どもたちの生物学的本性の一部に、利他主義が込み込まれていることを期待するわけにはいかないからだ。//

── おわり ──

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2024.11.15記す

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