他者の発見、他者との出会い ── 擬育48

 「間主観性」という言葉がわかりにくくて、しかし、大変気になったままだ。本を読んで理解するというより、自分の言葉で語れるようになりたいと思っている。
 新生児期の4週が明けても、赤ちゃんはまだまだ赤子の名がふさわしい。母に抱かれ、乳を与えられ、みるみると可愛さを見せてくれる。お腹にいたときから母の声を聴いていたという。赤ちゃんは「わたし」ではなく、赤ちゃんと母とがあわさって、赤ちゃんにとって「わたし」なのだ。「わたしたち」と複数にしてもよいが「わたし」個人なのだ。これが間主観性。
 パパがこわごわ抱っこしてくれる。赤ちゃんとパパとがあわさって、赤ちゃんにとって「わたし」なのだ。これも間主観性。

 間主観性は哲学用語らしい。誰かが日本語として「間主観性」を当てた。日本語としてはもっと相応しいものがないのだろうか? 共同主体性、前自我、苦し紛れに考えてみたけれど、むずかしい。

 間主観性を通して、やがて自我(アイデンティティー)に目覚める。「やがて」はいつだろうか? 鏡に映っている”自分”を自分とわかるのは「生後2年めの終わり」という記述をみつけた。「生後1年近く」では、「ことごとく失敗」して、鏡の”自分”に気づかない。
 どうやら3歳の誕生日を迎える頃には、自我が生じているようだ。「自我の目覚め」は、「友達ができた」ことと同じ意味をもつ。哲学的には、他者の存在が明らかになったという意味になる。他者を意識することで、自我との確執が始まる。社会の一員になったということで「けんか」や「物のとりあい」が始まる。

 この他者と自我(=自己)とのかかわりは、おとなになって、死ぬまで続く。他者がいなければ自分の死もない。死が気になるということは、他者抜きに生きられないということだ。野外活動で3歳児のとき「他者の発見」というステージになると説明している。しかし「自己の発見」というステージはない。5歳児で「自己は他者の存在で規定される」というステージになる。

 間主観性は3歳未満までにつかえる言葉だろう。「自我の目覚め」を通過することで「自己」が表れるというのは”錯覚”で、他者の存在によって現れる自己を意識しているにすぎない。だから、様々な人との出会いで私たちは揺れる、歓ぶ、悩む。──ことに、私は今さらに気づかされた。

 「おもいやる」「ゆずる」は他者を思ってのことだ。──と、気づいた。「きたえる」は自分のためでなくどうやら他者のため、らしい。

2020.12.1記す