||||| 新渡戸稲造『武士道』第10章:武士の教育および訓練 |||

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武士の教育および訓練

ボランティア活動にも通じる武士道

 第10章「武士の教育および訓練」。この章に辿り着き胸のすく思いがする。あまねく教師・官吏は今日にあってもこの章にある武士道を学んで欲しいものだ。「法の支配」の今日と封建制では細かなところでは相違は確かにある。これを「人の教育および訓練」とすれば今に十分通用する。武士道にもとる政治家・教育者の多いこと、タイムマシーンで訓練されたし。

 ──あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀をもって支払わるべきでなかった。価値がないからではない、評価しえざるが故であった。──
 ──かくのごとく金銭と金銭欲とを力(つと)めて無視したるにより、武士道は金銭に基づく凡百の弊害から久しく自由であることをえた。── 守るべきものがあるとき、失うものが多いとき、身動きの妨げになる。私は「Let’s become light. 身軽になろう」を信条としてきた。

(参考)つぶやき Opinion

 ──奢侈(しゃし)は人に対する最大の脅威であると考えられ、しかして最も厳格なる質素の生活が武士階級に要求せられ、奢侈の禁令は多くの藩において励行せられた。── 現代においては、「豊かさとは何か」を問うに等しい。

 ──公務の処理にせよ克己の練習にせよ、実際的目的を眼中に置いて教育は施されたのである。孔子曰く、「学んで思わざればすなわち罔(くら)し、思うて学ばざればすなわち殆(まど)う」〔『論語』〕と。──


 第2章「武士道の淵源」に以下の記述がある。
──孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語知らず」と嘲(あざけ)る俚諺(りげん)がある。典型的なる一人の武士〔西郷南洲〕は、文学の物識(ものしり)をば書物の蠹(むし)と呼んだ。また或る人〔三浦梅園(ばいえん)〕は学問を臭き菜に喩え、「学問は臭き菜のようなり、能(よ)く能く臭みを去らざれば用いがたし。少し書を読めば少し学者臭し、余計書を読めば余計学者臭し、こまりものなり」と言った。その意味するところは、知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現われる時においてのみ、真に知識となる、と言うにある。知的専門家は機械であると考えられた。

 加藤周一も同様のことを言う。

(参考)加藤周一『読書術』

2019.11.18記す

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