||||| 児童激減に苦悩する石巻の保育所事情 |||

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豊かな自然と人の営み再生に期待して

 宮城県石巻市の中心市街地から30分ほどで北上川の豊かな流れが視野に入る。川幅は600mを超えるであろう。飯野川橋を渡り、車のハンドルを右に切って左岸を河口に向かって走る。カーナビは「15km道なり」と伝える。蕩蕩(とうとう)と流れる川面は恵みをもたらすものであってその幻想をいつまでも持っていたい。幾度出会っても恋人のように惹かれる。ここを大津波が遡ったと思いたくない。
 地場産業資源のヨシ原が冬枯れ、褐色となっていた。日本の古民家、かやぶき屋根の資材の供給地がここ北上川にあるとは知らなかった。子育てがあり親子の営みを支えてきた民家や集落を想像した。いのちの重さに打たれる。ヨシ原も広いが、北上川はそれを包んで大地を潤す。私は北上川が好きだし出会えて嬉しい。併走して走れる幸せを感じる。
 車列は、いつのまにか前も後ろもそして対向車も10トンダンプばかりになった。威圧感はあるがゆっくり走ってくれるので、マイペースで走れる。大河にかかる橋は先程の飯野川橋をすぎると新北上大橋までない。屈強な三角形をかたどった緑色の鉄橋、新北上大橋を右手に通り過ぎると大海原が視界に入った。河口だ。車を停め河口の砂浜に下りた。

 硯(すずり)の原料になる粘板岩が風化して砂に混じり、砂浜の一部は黒ずんでいた。波頭(なみがしら)の白いラインが遠目に幾筋も見える。波は穏やかだ。人影のない砂浜に足跡を残すのが惜しくて私はここを動きたくなかった。あの津波さえなければ、この風景は訪れる人々の心を休めてくれるであろう。
 河口に別れ左手の山をめざす。あたりは湿地帯化している。地震で地盤沈下を起こし水が抜けない。合併前の旧北上町役場もここにあった。農家はどこも大きな家だったという。しかし今は、あそことここというふうにしか民家はない。その民家も、果たして人は住んでいるのだろうか。人気(ひとけ)はダンプの運転手や工事関係者ばかり。舗装された道を頼りに山里に分け入るような心持ちで車を進め、その行き止まりに目的のY保育所があった。

 Y保育所。比較的高台にあって津波被害からは免れた。45人定員だが、訪ねた2014年3月の在所児はわずかに5人だった。児童数の遷移を示そう。
 2011年3月11日の震災直前は19人。その1年後、震災翌年3月は7人と激減した。震災から2年後は9人、そして3年後の訪問日では5人。5人の内訳は、1歳児1人、2歳児2人、3歳児2人。4月からは4人になるという。
 推察をより正確にするために記すと、震災直前の19人から7人に激減しているが、19人のうち5歳児8人、4歳児4人に対して、7人の内訳は5歳児は0だ。震災の影響をうかがわせるものがある。
 ここY保育所は昨年12月にも訪れた。午睡から覚めた子どもたちの声が、走る足音とともに聞こえる。所長Kさんと話している私を見つけた子どもたちは、さらにキャーキャーと騒いだ。落ち着かないのだ。広い園舎に響く子どもの声を私は、空疎(くうそ)であり、冷たく感じた。保育士たちの苦労や迷いを察する。
 「ここには、浜が13あるの」と、Kさんが話し始めた。「追波(おっぱ)、吉浜(よしはま)、月浜(つきはま)……」と、指を折りながら名づけられた浜を私に伝えようとしてくれた。ここに住む人々は、切り立つ断崖を背に海産物で生計を立てている。「森は海の恋人」の名句を生んだリアス式海岸の狭い入り江ごとに名前がつけられている。
 1955年までは宮城県本吉郡十三浜村であったし、その年に隣村(橋浦村)と合併した時、0歳~4歳までの人口は1,084人であった。それが震災前年の国勢調査では118人となっている。人口の激減を視るのではなく、子どもたちの声が絶え間なく聞こえたであろう過去において、村人たちの生きざまに私の想いが馳せる。

 北上川を挟んでY保育所の対岸にO保育所がある。定員30人に対して、震災直前14人、震災1年後13人、2年後17人、3年後11人、そして4月は7人になる。7人の内訳は、1歳児1人、2歳児2人、3歳児4人。津波の直接的な被害は免れたものの、若い人たちは住みなれた村を離れていくという。
 石巻市は2005年、周辺6町と合併し、(新)石巻市となり、面積で4倍、人口で約1.5倍となった。「いしのまき」と一口にいっても、周辺6町と旧石巻市とでは景観も違うし、生業も異なる。津波が人々の暮らしを根こそぎ奪い去ったなら、それからの復興は、人々の暮らしをその根っこから再生していかねばならないだろうし、そのためには営々と築いてきた地域や人々の資源に目を向けることが大切であろう。
 子育ては、まちという地域共同体を勇気づけてきたし、未来を計画性あるものにしてきた。保育所はその存在を必然とし、地域社会の安心を引き受け、子どもの育ちを支えてきた。一人ひとりの子どもの育ちに寄り添うことが保育士の役割だが、児童数減少の現実に保育所職員の苦悩や哀しみが読み取れる。

 北上川河口から石巻市中心市街地まで車で1時間近くかかる。その方向とは逆、リアス式海岸沿いに30分近く北に走り、A保育所に辿り着いた。定員45人。在所児は震災前31人、震災1年後21人、2年後22人、3年後19人。4月は17人を予定。17人の内訳は、1歳児2人、2歳児3人、3歳児2人、4歳児6人、5歳児4人。
 やがて南三陸町につながる道路は保育所手前で寸断され、山の中腹から海辺まで下降した。潮の香りがする狭い道は等高線を象(かたど)るようにゆるやかにカーブし、漁船を見届けたかと思うと再び坂を登り始め、寸断の先にあった道路まで進み、そこを横切りそのまま山を登った。するとすぐに集落に出た。甍(いらか)がたくさん見える。ああ、ここに人が住んでいるんだ。ここまでは津波が来なかったのだろう。安堵の気持ちがわきあがってくるが、道が狭すぎて車を停めることができない。A保育所への案内標識を左に見てハンドルを切ると、さらに急な上り坂になり、その先の行き止まりが目的地だった。

 保育所に隣接して子育て支援センターが併設され、センター長Tさんが応対してくれた。A保育所の元所長であり、当地の住民でもある。ここではお年寄りや若い家族が助け合って生きていると、初老のTさんは語った。私たちは素朴な保育をずっとここでしてきました、と──。森と海が一体化した子育てがここにはある。それなくしては生きてゆけない。
 どこから子どもたちはこの保育所に来ているのですか、と私は訊いた。「ここにも仮設住宅はあるのですがそれらは小さくて、ずっと離れたサンパークからも来ています」と。「仮設にっこりサンパーク団地」のことだ。

 驚いた。車で30分はかかる。前日、Y保育所でもサンパークの話を聞いていたので、私は事前に現場を視察していた。テニスコート、野球場、多目的グラウンド、クラブハウスなどがある健康スポーツ施設の総称が「にっこりサンパーク」。北上川の流れを俯瞰できる高台にある。その多目的グラウンドが仮設住宅で埋められている。この仮設住宅団地は子どもたちが多いということだった。Y保育所やA保育所に通う子どもたちもいる。
 親は30分かけてA保育所に子どもを送る。そして、それから親はどこへ行くのだろう。A保育所と仮設住宅の間に就労できる場はほとんどないと想像されるから、親は1時間以上かけて仕事に就くのだろう。保育所に通うために早く寝起きしなければならない親子だとすれば、そんな過酷な暮らしが長続きするわけがないと思ってしまう。
 じつは、児童数が激減しているY保育所は廃止の方向にあり、東に位置するH保育所と統合され、その統合は、サンパーク仮設住宅団地の跡地に新設される計画だという。しかし、仮設住宅の撤去に目途は立ってない。

 保育士は子どもの育ちが1年でどれほど成長するかをよく知っている。Tさんの言葉を借りれば、日々の素朴な保育が、幼い子どもの一人ひとりにどれほどかけがえのない重要なことであるかを保育士は身に浸みて知っている。0歳のあかちゃんは5年も経てば、もうしっかり小さな大人でもある。にもかかわらず、保育所の再生計画は仮設住宅撤去後とされ、過酷な登所、通勤の苦難が続く。
 日々の保育や親子の育ち合いを保障するために、ものいわない子どもたちの発達保障のために、小規模保育所などの設置も視野においた保育所再生計画の再検討を望みたい。

 地震と津波で多くの人命が奪われた一方で、岩手、宮城、福島の3県では、保育所において、保護者に引き渡せずして保育士ともども一緒に避難した子どもで亡くなった例は0であるという。被災したのが3月で、保育士と子どもの関係が最も密になっていたことが幸いしたと推察される被災体験の記録が多くある。そして、復興に従事するため、保育所はいち早く立ち上がる必要があったことも報告されている。
 保育の歴史を見ても、親が安心して働けるためには子育ての役割を担う社会的機能が必要なことは自明であり、今日の待機児童対策への国民的関心はそれを反映している。
 ましてや、生活基盤、就労の機会をその根底から喪失してしまった震災被災地において、保育所の再生とその機能確保は、子どもの発達保障からみても喫緊の課題であろう。
 Tさんは何度も、「素朴な保育」を今までもしてきたし、これからも続けてゆきたいと、自らにいい聞かせるように話していた。


※全国私立保育園連盟『保育通信』No.712 2014年8月号 に発表したものです。
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2014.8.15再録

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