保育所保育指針(以降「指針」)
平成29(2017)年3月31日 厚生労働省告示
第1章総則 > 第2項養護に関する基本的事項
> 第2号養護に係わるねらい及び内容
> イ 情緒の安定 >(ア)ねらい > ③
//一人一人の子どもが、周囲から主体として受け止められ、主体として育ち、自分を肯定する気持ちが育まれていくようにする。//
条文にある「主体」は、何を意味するのだろう。
1970年代、中国の文化大革命や国内の大学紛争(闘争)の影響を受けたと思われる「子ども中心主義」というものがあった。先輩を敬うことを拒否し「呼び捨て」に当然という空気があった。当時わたしが所属していた保育園では、子どもが先生を呼び捨てにしていた。このことを主張する職員がいたからだ。小中学校現場でも同様のことがあったようだ。子どもの人権を守ることが理由だろうが、この「子ども中心主義」は失敗だったと反省の文章を読んだことがある。指針の条文は「子ども中心主義」ではない。
いわゆる「イヤイヤ期」と称される態度を子どもにとられることがある。2歳前半頃だ。子育てでなかなか大変なときだが、そのときの主体をどのように認めればよいのだろう。5歳になると頑固に主張するようにもなる。友達とケンカしてしまった。主体を認めて理由を聞き出そうとするが、その説明が判然としないことは多い。じっと我慢して待つのが主体性を重んじることになるのか。子どもの主体を損なわないようにサポートするには、さてどうすればよいのだろうか。
◇
保育室で3歳児(満年齢は4歳かもしれない)がすっくと手を伸ばして挙げた。そのさまがあまりにもしっかりしているので年齢を先生に訊ねてわかった。3歳児とは、とても思えなかった。
なにをしても友達にゆずる5歳児がいた。我を主張することがない。気丈夫というか、どうしてこんなにやさしい態度なのか。いとおしかった。
「主体」の理解は容易でない。他者の「主体」を認めようとする態度は、おとな一般だれもがもつ意識だ。しかしながら、施設型保育では、職員間でよく話し合い、共有可能な目標がいるようだ。
鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ』ミネルヴァ書房 2006年
p58
//主体という概念を再考する// 「第1章」のタイトル
//主体という概念は保育や教育の世界では比較的よく使われる概念ですが、そのわりに、それをどのように押さえるかに関して、十分な議論がなされているようにはみえません。//
※「第1章」はp58~114
こども家庭庁は「こどもがまんなかの社会しゃかいを実現するために」という言い方をしている。〈こどもがまんなか〉とは、どういう意味か? キャッチフレーズだけで理解できるものではないと思う。
「主体」と「間主観性 かんしゅかんせい」
鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ 間主観性と相互主体性』
+ ミネルヴァ書房 2006年
p12
//intersubjectivityという概念は、間主観性、相互主観性、共同主観性、間主体性、相互主体性などと、多様に訳出されていることからも分かるように、多面多肢的な──ある意味では曖昧な──概念である。ちなみに筆者の理解では、この概念は少なくとも次の5つの次元に沿って裁断してみることができるように思われる。
(1)二者の身体が意識することなく呼応し、そこに相互的な、相補的な関係が成立するという間身体的な関係(メルロ=ポンティ)の次元、
(2)相手の意図が分かる──こちらの意図が相手に通じるという相互意図性(トレヴァーセン)の次元、
(3)相手の情態(嬉しい、悔しい、くたびれた等の広義の情動)が分かる──こちらの情態が相手に通じるという相互情動性(スターン)の次元、
(4)相手の語ることが共感的に理解できる──こちらの話が相手に分かってもらえたと実感できるという相互理解の次元、
そして最後に(5)我々に自らの主体性や主観性と捉えられているものが、実際には最初から他者の主体性や主観性によって媒介されているという、相互主体性ないしは共同主観性の次元。
これら5つの次元は互いに重なり合い、あるいは互いに他を規定しあっており、研究者の関心の焦点としてさしあたり区別することができるにすぎない。//
俗に言うところの〈自分さがし〉は、おとなの迷い。この世に生を受けたばかりのあかちゃんに〈わたし〉は存在しない。”生みの親”という表現は間違った観念をまき散らすのでいきなりだがこれを否定した上で、あかちゃんを抱いている多くの場合、その母が、あかちゃんと一体を為す〈わたし〉なのだ。
母との一体から別れ、〈他者=あなた〉との違いに気づき同時に〈自己=わたし〉を認めるようになるのは、生まれてからかなり後で、3歳の誕生日を待つことになるようだ。
ということは、この世に生を受けてから2歳満了までに育つ環境、人間関係はもとより、あらゆる環境(犬、猫、家畜、風、樹木、聞こえてくるもの、さわるもの、温かい食べ物、着せられる衣服、雨の音、日射し、……無数にあるだろう色々)が発育の基礎をなす。
M.メルロ=ポンティ『大人から見た子ども』みすず書房 2019年
p194
//フッサールは、他人知覚は「対の現象」のようなものだと言っていました。//
p194
//他人知覚においては、私の身体と他人の身体は対にされ、いわばその二つで一つの行為をなし遂げることになるのです。//
p195
//幼児がまだ自己自身と他人との区別を知らない状態のときでさえ、すでに精神の発生が始まっているのだとすれば、他人知覚も理解できることになるのです。//
p195
//幼児の経験が進歩するにつれて、幼児は、自分の身体が何といっても自分のなかに閉じこもっているものだということに気づくようになり、そしてとくに、主として鏡の助けを借りて獲得する〈自分自身の身体の視覚像〉から、人は互いに孤立し合っているものだということを学ぶようになります。//
p196
//こうした考え方は、いろいろな傾向の現代心理学に共通のものであって、たとえばギョームとかワロン、ゲシュタルト心理学者、現象学者、精神分析学者などにも見られるところです。//
※「二つで一つの行為をなし遂げる」は「間主観性」の説明となる。
鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ 間主観性と相互主体性』
p15
//「子ども──養育者」という二者の関係を考え、その繋がり(疎通性)を論じようとして導かれたのが間主観性という概念だったのです。//
p11
//発達心理学の領域では母子間相互作用という観点からの研究が増え、「行動の同期性」というような行動のことばで子どもと養育者のあいだの関係が語られていくことに、妻〔※〕と共々、何か釈然としないものを感じていました。その釈然としない何かとは、煎じ詰めれば心の問題を避けているということに尽きます。ここに間主観性という概念が登場してくる理由があります。//
※妻……筆者の妻/鯨岡和子
哲学と心理学の狭間で
p28
//行動科学批判を旗印に自分の立場を宣言したのが、ちょうど間主観性の論文(1986)と同じ年に発刊した『心理の現象学』という私にとっては初めての単著でした。これは従来の行動科学の立場を現象学の観点から批判しつつ、しかし返す刀で哲学的現象学の思弁性、つまりフッサールやメルロ=ポンティの注釈や読解ばかりにとどまって、一向に人の生き様に迫ろうとしない哲学の思弁的な立場を切り捨てようという、いかにも若気の至りという内容の著作です。//
(参考)
自己と他者
声とからだ》竹内敏晴がいう、サリバン先生の”奇跡”
2023.8.28Rewrite
2021.8.11記す