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生命誕生の物語

三木成夫♣『海・呼吸・古代形象』うぶすな書院 1992年

×植物×動物

♣p209
//生命誕生の物語りによれば、地球の原初の海に生れた、小さな有機滴は、周囲からの直接の「吸収」によって、生の素材を入手し、これを、当時の無酸素の世界のなかで、一種の”発酵”というやりかたで、生の原動力に転換していったという。この原始の生命形態は、嫌気的な従属栄養で生きる、今日のある種の菌類の姿に、そのおもかげを求めることが出来るといわれるが、やがてそこから排出された、炭酸ガスの蓄積は、太陽光線を利用して、周囲の無機物から生体の有機物を「合成」する新型の単細胞生物の発生を促がすこととなる。これが、光合成によって独立栄養を営む、今日の藻類の始まりであるといわれるが、こゝからやがて放出された酸素が、しだいに周囲に充満するにつれて、そこには“呼吸”という能率的な方法で、「消化」した食物を燃焼させて生の動力を得る、もっと新しい単細胞生物が姿を見せる。これが好気的な従属栄養を営む、アメーバの初まりだという。
 こうして原始の菌類は、植物と動物の遠い祖先を相ついで生み出すのであるが、以来かれらは、この両生物のからだに依存しながら、まったく異なった、この二種の栄養過程を結びつけ、こゝに巨大な地球の生態系を完結させる。まさに菌類の裏方に支えられて、この対照的な二つの生物の世界が完成することになる。//

哺乳類の起原、そして人類誕生

♣p205
//今日までの古生物学によれば、人類をふくむ脊椎動物の祖先は、地球の古生代、すなわち今を去る数億の昔、当時の海底に、はじめてその姿を現わしたという。現在の魚類とは、著しく形態を異にした、この原始の脊椎動物は、やがて古代魚類に進化を遂げながら、その一部は、棲み馴れた故郷の海の水を離れて、まったく未知の、淡水の世界へ移っていったという。この新しい環境の適応にみごとな成功を収めたかれらは、こゝから、さらに新天地を求め、ついに、それまでの水の生活を捨て去り、古生代も終りに近い、石炭紀の”古代緑地”に上陸を敢行する。それは脊椎動物の歴史における、もっとも目ざましい出来事の一つ、といわれるものであった。かれらは、この、かつて経験のなかった空気の環境に対処するため、みづからの体制を革めながら、古代両生類の形象を、そこで造り上げるが、やがてこゝから、完全に陸上への定着を終えた種類を生み出す。そしてそれは、中生代の豊𩜙の地に一大王国を築き上げるのである。現存爬虫類の遠い祖先であり、あの恐龍に代表される古代爬虫類がそれであった。この地球の中生代はしかし、やがて起こったアルプス造山運動の、雄大な地殻変動によって、ついに新生代の幕開けを迎えるのであるが、そこでは、まったく装いも新たに、全身に毛皮をまとった新しい種類が、絶滅した爬虫類の一角から登場し、見る間にこの地上を制覇してゆく。哺乳類のこれが起原であることはいうまでもない。今日の霊長類の各種は、こゝから枝分れし、そしてその最新種として人類が誕生したのであるという。//

(参考)爬虫類ではなく、両生類から哺乳類は現れた

♣p207
//羊水に古代海水のおもかげを求め、母の胎内に、小さな宇宙を見てとる、人間の深い心情は、このからだの原形質の奥底に根差す、そうした「生命記憶」に由来するものではなかったか。人びとは時に、この悠久の記憶の回想にひたる……。//

海水と羊水の溶存成分比較

藤田紘一郎 2004年『水の健康学』(新潮社)p23より
//さて、ここまで地球になぜ水が発生し、海のなかでなぜ生命が生まれたかを説明してきたが、実は、これは人体を知る上で非常に大切なことなのである。
 まず海水と血液の組成がとてもよく似ていることを知っておいてもらいたい。
 もう少し正確にいうと、血液からタンパク質などの大きな分子を除いた成分を血清というが、その中のクロール、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、カルシウムなどの比率がほとんど海水と同じなのである。
 そして、母親の血清から作られる羊水のミネラル比率がこれまた海水とほとんど同じなのである(図1-2)。
 羊水のなかで成長した人間の胎児は、十月十日(とつきとおか)の間に、35億年間の生物の進化を体験して生まれてくる。その進化の場として海水と同じ成分の羊水が必要だったのである。
 鳥や昆虫などの卵のなかの体液も、植物が実を結ぶ子房のなかの液も、やはり海水に似たミネラル比率であることも納得できるだろう。海こそがすべての生物の誕生の場であったからである。//
※藤田紘一郎……寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学を専門とする医師

参考
+ いのちが生まれた海、潮だまり
+ “どうぶつ”として生まれた & いのちのはじまり

♣p204
//われわれは、個体発生の一コマ一コマの中に、遠い昔のアルバムが秘められていることを知った。しかし、そこに写し出されているもの──それは実物の像ではなく、あくまでもその形象──いわば”おもかげ”に過ぎぬもの──でなければならなかった。これをいいかえると、われわれは、胎児の顔を通して、かつての動物であった時代の”まほろし”を偲ぶ……、ということになるのではなかろうか。
 さてこゝで、以上の個体発生の問題はひとまずおき、//
※いわゆる《個体発生は系統発生を繰り返す》のことだが、『個体発生は進化をくりかえすのか』(倉谷滋/岩波書店2005年)によると、今日に至って、否定または疑問とされている。→ AI(人工知能)と砂時計モデル 

:::::: 原形を《すがた:かたち》に求めて ::::::

//幼児達は、先ずおのれを取り囲む現象の大海原の中から「同類の形象」に目覚めて行く。其処では、或るひとつの形象が、曾て〔かつて〕のそれと“オナジ”か、またはそれ”ミタイ”である事が自ら認知される。//

上↑《「原形」に関する試論 人体解剖学の根底をなすもの》(三木成夫♠『生命とリズム』河出文庫 2013年)所収 p256

//われわれの心の眼はそこに映る“すがたかたち”の中にそうした「遠」を見てとるのである。//

上↑※「遠」……”おもかげ”
《人間生命の誕生》(三木成夫♠『生命とリズム』河出文庫 2013年)所収 p30

  • 三木成夫 みき・しげお
    • 1925~1987年
    • 解剖学 / 発生学

豊かな造形の世界 “すがたかたち” に “いのち”

♠p33
//さて、心情の覚醒によって体得された森羅万象の”すがたかたち“は、やがて人類が精神の稲妻に打たれた時、そのいわば幻の像がひとつの鮮やかな映像として刻々の瞬間に固定されることとなる。人びとはその映像をさまざまな方法で表しそこに豊かな造形の世界を繰り展げてゆくのであるが、しかしやがてかれらの関心はそのかたちの持つ法則性いわゆる“しかけしくみ”の方に向けられ、そこで自然科学の目覚ましい世界を開拓してゆく。//
“しかけしくみ”“すがたかたち”の対照としておかれる。

♠p33 森羅万象で形容される「無常」
//無常の流れに逆らっておのれを不動のものに固定する。世界が人間を中心に動くというひとつの錯覚がここに生まれ、そしてまさにここから、自然の”しかけしくみ“を逆用して、おのれの飽くなき欲望充足に役立たせようとする今日の世相が成立することとなる。//

♠p33 続けて、生命再生に向けて、告発となる。
//それは、心情の支えを失って精神に憑かれた自我者の集団が、この地球の自然を文字通り「原形」をとどめぬまでに掘り返し、掘り尽くして倦むことがない昨今の光景に如実に象徴されるであろう。それはカルチャー(culture 耕作)の終焉を意味する。//
※倦む……倦む(うむ)。//〔同じ状態が長く続いて〕飽きる・(疲れる)//新明解国語辞典第三版

♠p33
//さて、それでは人類本来の姿とはいったいどこにあるのか?//
♠p34 先史数万年/上古代の人間像に思いを馳せ……
//人間形成とは人間の原形完成の謂れ(いわれ)である。それはすでに述べた”人間らしさ”の完成にほかならない。人間の生命はこの時初めて誕生する……。//
※《人間生命の誕生》をタイトルとする稿はここで閉じられるが、《「原形」に関する試論》に引き継がれる。

三木成夫のいう “すがたかたち” ──原形を求めて

♠p26
//”すがたかたち”の学問体系の基礎が、ゲーテの形態学(Morphologie)によって確立されたことを知るものは少ない。ゲーテはこうした人間独自の”すがたかたち”を人間の原形(Urtypus)と呼び、この原形の解明にその生涯を賭したのであったが、もっとも厳密な意味での「人間形態学(Anthropologie)とは、こうした人間の原形探究の学でなければならないことは言うまでもない。それが人文の学に属そうと、あるいは自然の学に属そうと。
 人間の原形──要するに”人間らしさ”とはいったいなにか? ゲーテは、猿から峻別するいわば伝家の宝刀といわれる「理性」によって人間は、”いかなる猿よりも猿らしくなった”と言う。そして現今は、この”人間らしさ”を失った生ける屍が世に充満していると言われるのである……。//

♠p256
//幼児達は、先ずおのれを取り囲む現象の大海原の中から「同類の形象」に目覚めて行く。其処では、或るひとつの形象が、曾て〔かつて〕のそれと“オナジ”か、またはそれ”ミタイ”である事が自ら認知される。初めて見る窓辺の雀から、何時も見て来た玩具の小鳥が振り返って指差され、更に絵本の鳩ポッポから今度は窓辺の雀と、玩具の小鳥の両者が相次いで指差される……と言った工合に。彼等は見た目に可成り異なって映るこの三者の間に、しかし「根原の類似」が横たわっている事を、既に誰に教わるともなく見てとった事になる。〔略〕この累積像は更に繰り返される同類印象の体得によって次第にその輪郭を定め、やがては「小鳥」と呼ばれるひとつの面影に迄成長発展を遂げ、遂にはこれをもとに、どんな鳥影に接する事があっても、それを例えば蝙蝠(こうもり)のそれと混同する様な事もなくなる。//

三木成夫の「遠」(おもかげ)は、
植物から動物へ、そして人間の原形へ

♠p28
//しからばいかにして歳月の移り変わりを知ることになるのであろうか? それはこの植物を形成するひとつひとつの細胞原形質に「遠い彼方」と共振する性能が備わっているから、と説明するよりないであろう。巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない。
 したがって、この原形質の生のリズムが、例えば太陽の黒点のそれに共振することがあるとしてもなんら不思議とするにあたらないであろう。//
※たぐいまれな想像力。理解しようとする我々のほうが追いつかない。

♠p28 三木成夫イメージの創作が続く
//細胞原形質には、遠くを見る目玉のない代わりに、そうした「遠受容」の性能が備わっていたことになる。これを生物の持つ「観得」の性能と呼ぶ。植物はこのおかげで、自らの生のリズムを宇宙のそれに参画させる。われわれはその成長繁茂と開花結実の二つの相の明らかな交替が日月星辰の波動と共鳴しあって一分の狂いもないのを見るであろう。こうして植物の生はこの大自然を彩る鮮やかな絵模様と化す。
 さて、これが動物ではどのようになっているのか?//

♠p30
//地球上の森羅万象はことごとく地球生誕の劫初(ごうしょ)の昔につらなる。それらは言いかえれば、ことごとく50億の歴史を持つ。われわれの心の眼はそこに映る”すがたかたち”の中にそうした「遠」を見てとるのである。1ヵ月の胎児の顔貌は現存する古代魚のそれとともに、人びとの心を古生代の彼方にまで連れ去ることであろう。そしてこの地上のすべての生物を生み出し、はぐくみ育てたその時代の海水が、いまもなおその“おもかげ”を母胎羊水に宿し、われわれの揺籠(ゆりかご)の姿をくまなく満たすのを見るのである。//

三木成夫の生命思想 “すがたかたち”

 三木成夫は解剖学者であり、自然科学者でもあった西洋の詩人ゲーテの形態学に思いを傾斜している。上記に引用した文章は、科学的手順を踏まず、「信念」に基づいたものと言えよう。とはいえ、解剖学の師として、《人体解剖学の根底をなすもの》を副題にした《「原形」に関する試論》において、「解剖」の意味についての考察は「なるほど……そういう意味か……」と、うならせるものがある。〈「原形」とは何か〉と思いながらこの書を読むと、人間(ヒト)は何から誕生したのか?──という問いだと理解した。

 野鳥をかたどった玩具(つまり、おもちゃ)に対して、窓辺に飛ぶスズメ、絵本に描かれる小鳥、それらを総称して「トリ」の原形を把握する幼児の認識過程を記す。飛翔するコウモリをトリと間違えず区別する、とある。こうして「鳥類」というカテゴリーを獲得する。犬や猫にもいろいろとあろうが、犬の仲間と猫の仲間を容易に区別するようになる。このことは、人間にもいえる。

 「日本人」と「日本人でない」を、ときに紛らわしいことはあるが、概ね、わたしたちは区分することができる。「日本人とは?」「人間とは?」それぞれのカテゴリーに応じて、わたしたちは応答可能だ。三木成夫のいう「原形」とは、こういうことだ。
 解剖において、人間はその外観からは個々人が観察して区別するだろうが、からだの内部については、メスを入れずして見ることはできない。その内部を解剖学者が目撃したとき、外観は違っても、およそ似た構造を内部に見ることができる。しかし、三木成夫は、ここで満足しない。「内部」は? 地球に起源を求めて思索をめぐらす。ヒトの乳児については、胎内の羊水が海水に源がある、としている。三木成夫の「生命観」は思想である、と私は思う。

植物はタテに… 動物はヨコに…

植物は「積み重ね」
動物は「はめ込み」と、三木成夫は表現している ♣p208

植物(タテ 積み重ね)……細胞「壁」大活躍

♣p208,p211より要約・整理すると
植物……”植”ったまゝで自らを「合成」する 生産者。「栄養と生殖」
+++ 親の遺産 「澱粉」
+++ 幼根と幼芽がそれぞれ大地と大空に向け、垂直の姿勢
動物……”動”いてそれを食べて「消化」する 消費者。「感覚と運動」
+++ 親の遺産「卵黄」
+++ 頭部と尻尾を前方と後方に向けた、水平の態勢

♣p211
//古くから「口-肛」の器官は、生本来、したがって、植物と共通した「栄養-生殖」の機能に携わるところから、それは「植物器官」と呼ばれ、一方「頭-尾」の器官は、上述のように動物だけに見られるところから「動物器官」と呼ばれてきた。こうして、脊椎動物では、植物・動物両器官が、腹背に重なって体軸方向に細長く※ヨコ〕伸び、それぞれの入口──栄養門と感覚門──が頭部に、また出口──生殖門と運動門──が尾部に開くという特徴的な体制が造られる。これは植物の体制が、たゞ栄養と生殖にのみ専念する※タテ〕「根と葉」および「花と実」に分極することと、みごとな対照をなすものであろう。//
※〈古くから〉とあるのは、三木成夫由来ではなく、より古くというかとか。
♣p213
//植物が”積み重ね“のかたちをとり、動物が”はめ込み“のかたちをとる、といわれるゆえんである。//
♣p212
//動物の細胞では一枚の薄い細胞膜で済まされるものが、こゝでは〔植物では〕、その外側が丈夫な細胞膜によって補強され、全体が堅固なプロック建築の様相を呈することになる。//
♣p217
//植物は天地へ向って際限なく伸びてゆくが、動物はみづからの内にまとまって閉じこもるのである。//
♣p217
//「土着性」と「彷徨性」//
※前者が植物、後者が動物。

2023.1.13記す

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