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ルドルフ・シュタイナー『人間理解からの教育』筑摩書房 1996年
訳:西川隆範
原書の発行日:1924年

p9 本署は、ここから本文が始まる。節のタイトル//緒言//
//イギリス南西の海岸の町トーキーにおいて、イギリスの人智学(アントロポゾフィー)運動の友人たちがサマーコースを催した。感情こまやかで遠大な目標を目指している人智学者ダンロップ氏と、疲れを知らぬ活動家で愛情に満ちて運動に献身しているメリー夫人が、ほかの友人たちとの協力を下に、この講座を実現するという大きな仕事を実行した。//
※緒言……序の意。
講座……ヴァルドルフ教育学に基づく学校をロンドンに設立する教師のための教育講座

p9
//わたしはこの講座において、午前中は『精神探究の正しい道と誤った道』というテーマについて協会員と人智学の友人たちに連続講義をおこなった。……
 イギリスにヴァルドルフ学校をモデルとした小学校を設立しようとしている教師たちのために、わたしは教育学講義をおこなったのである。まず、教師に必要な見解、〈教育芸術〉の実行に欠くことのできない心魂の態度を明らかにしようとした。そして、個々の教科、学科についての方法論的な示唆を与えようとした。この教育学講座では、ほんとうの人間認識に基づた授業実践が提示される。//

p13 節のタイトル//真の人間認識の必要性//
//イギリスで人智学精神学的な人間学)を踏まえた学校の設立を考えることができるにいたったのは、教育の歴史においてほんとうに画期的なことです。
 このようにいうと、厚かましいと思われるでしょうが、人智学を基盤とする教育方法は、ほんとうに独特のものを基盤としています。人智学的な教育学と呼ばれるものには特別大事なものが基盤になっていると教師になる人々が心魂の深みから認識していることを、わたしはたいへん嬉しく思っています。
 人智学的な教育学について語るとき、わたしたちは狂信的な改革思想から教育の改新の必要について語るのではなく、人類文化の進化を感受し、体験したことによって、教育の改新について語るのです。
 19世紀およびそれ以前にも、多くの傑出した人々が教育について大切なことをなしとげたことを、わたしたちは知っています。ただ、それらの非常に優れた、善良な意図からおこなわれたものについて、「教育に関して可能なことすべてが試みられた。しかし、そこにはほんとうの人間認識が欠けていた」と、いわなくてはなりません。
 15世紀以来、唯物論があらゆる領域を支配するようになっていますが、唯物論が支配する時代には、ほんとうの人間認識が存在しえません。そのような状況において、教育について考えられてきたのです。そのために、教育改革についての考えが表明されても、それは砂上の楼閣のごとき、基盤のない建造物のようなものだったのです。//
※「唯物論」が根拠になるだけで「砂上の楼閣」になるという。

p14
//人生はどのようなものであるべきかということについての、さまざまの情緒的判断から、教育原則が打ち出されました。しかし、人間の全体像を知る可能性はまったくなく、神から与えられたものが人間のなかに植えつけられている。それは人間が誕生前の世界から地上に下ったあと、人間のなかにどのように開示しているか」と問われることもありませんでした。
 この問いには抽象的に発せられうるものですが、この問いに具体的に答えるためには、人間を〈身体(ボディー)・心魂(ソウル)・精神(スピリット)〉の三つからなるものとして正しく認識することが必要です。
※いよいよ論が展開され始めた。「19世紀およびそれ以前にも、多くの傑出した人々が教育について大切なことをなしとげた」としながらも、それらを全否定するかのような表現だ。

p14
//今日の身体認識は非常に進んでいます。生物学、生理学、解剖学によって、身体認識は非常に進んでいます。
 しかし、心魂認識になると、現代のものの見方では先に進むことができません。心魂に関することは、今日ではたんなる名称、たんなる言葉にすぎないからです。思考・感情・意志ということについても──現代の通常の心理学に拠るなら──もはや実体は把握されません。〈思考・感情・意志〉という言葉は残っています。しかし、思考・感情・意志という言葉で語られる、心魂のなかに活動しているものについての観照は、もはや存在していないのです。
 今日、心理学者たちが思考・感情・意志について語るときは、なにからなにまで、ほんとうに好事家の道楽みたいなものです。肺や肝臓について、子どもの肝臓と老人の肝臓を区別せずに一般的な話し方をするような語り方を心理学者はしています。//
※本書が記された20世紀初めの心理学に対する認識においては、このような見方もあるだろう。

p15
//身体についての研究はたいへん進んでおり、生理学者が子どもの肺と老人の肺を区別しないということはありません。生理学者は、子どもの髪の毛と老人の髪の毛を区別します。身体に関しては、そのように区別されているのです。
 しかし、思考・感情・意志については、ただ言葉が語られるだけであって、実際にはなにもわかっていません。たとえば、心魂のなかにおいては思考は老いた意志であり、意志は若い思考であるということを知らないのです。人間は心魂のなかに、青年と老人を同時に有しているのです。//
※?
//子どもにおいても、心魂のなかには若い意志のかたわらに老いた思考が存在しています。若い意志と老いた意志が、同時に存在しているのです。今日、人々は身体についてはよく知っていますが、このような心魂の現実についてはほとんどなにも知りません。ですから、教師は途方に暮れて子どもに向かい合うのです。//
※子どもに向きあったときに生じる思いに、途方に暮れる思いがあるとし、その戸惑いを説明していると理解してよいか? 情緒的判断ではないとしたら、どう説明しようとしているのだろう。

p16
//医者が子どもと老人を区別できないとしてみましょう。そうすると、医者は途方に暮れるにちがいありません。心魂についての学問が存在しないために、教師は医者が人間の身体について語るように精密に心魂について語ることができません。//
※「子どもと老人を区別できない」という仮定がなぜ立てられるのか?
//精神というのは、もはやなにものでもなくなっています。精神については、もはやなにも語られません。精神という言葉は、もはや多くを意味しません。精神については、もう言葉以上のものは存在していないのです。//
※?
//ですから現代では、人間認識は話題にもならないのです。そのような状態なので、「教育は正しくおこなわれていない」と、感じることができます。さまざまなことを改良、改善しなくてはならないのですが、人間についてなにも知らないとしたら、どのようにして改善することができるでしょうか。いままでの教育改革案は、すべて善良な意志に満ちたものではありますが、人間認識が抜け落ちているのです。//
※?

p16 「人間認識の必要性」を説いていこうとしている。
//そのことに、わたしたちは気づいています。今日、なにが人間認識の助けとなりうるのでしょうか。それは人智学なのです。セクト的、狂信的な地盤からそのようにいっているのではありません。今日、ほんとうに人間を認識するためには、人智学を受け入れるしかないのです。//
※確信的! 強制的!
p17
//人間認識に基づいて授業をおこなうには、その人間認識を自分のものにしなくてはなりません。もっとも自然なのは、人智学をとおして人間認識を身に付けることです。だれかが新しい教育学の基盤について質問したら、人智学が新しい教育学の基盤だ、と答えなくてはなりません。
 ところが、わたしたちのなかには、できるかぎり人智学を否定して、人智学なしの教育学を普及させようと努力している人が大勢います。彼らは、教育学の背後に人智学が存在するということを人々に気づかせたくないと思っているのです。
 ドイツには、「毛皮を洗っておくれ。でも、濡らさないでね」ということわざがあります。人智学を表に出さないでヴァルドルフ教育学を広めようというのは、これとおなじことです。大切なのは、ほんとうに思考し、真実を語ることです。
 ですから、だれかが「どうしたらよい教師になれるだろうか」と問うなら、わたしたちは「人智学から出発しなければならない。人智学をおろそかにすべきではない。人智学をとおして人間認識を得なくてはならない」と答えなくてはなりません。
 今日の文明においては、人々は人間認識を有していません。人々は理論を持っていますが、世界についても人生についても人間についても、いきいきとした洞察をしていません。ほんとうに現実的な洞察は生活実践へと導くものですが、今日、人々は生活実践をおこなえないでいます。
 今日、もっとも非実際的な人とは、どんな人でしょうか。不器用で世事に疎い学者がもっとも非実際的なのではありません。世事に疎い学者が非実際的だということを、人々は知っています。しかし、才気あふれる理論家がもっとも非実際的だということに、人々は気がついていません。商業、工業、銀行に携わっている、いわゆる専門家がもっとも非実際的な人々なのです。
 彼らは理論によって実生活しています。今日では、理論的思考から銀行が作られています。そこには実際的なものがまったく存在していません。人々はそのことに気がつかず、「専門家がそういうふうにやっているのだから、そうすべきなのにちがいない」と、いいます。そのことによってどのような害が人生におよんでいるかに、人々は気づいていません。専門家のやっていることは、まったく非実際的なことなのです。今日では実生活が、まったく非実際的なものになっています。あらゆる分野において、実生活がまったく非実際的なものになっているのです。
 しだいに破壊的な要素が文明のなかに入ってきて、文明を解体するようになると、はじめて人々はそのことに気づくでしょう。もし、いまの状態がつづくなら、世界大戦は崩壊のはじまりにすぎなかったことになります。世界大戦は実際、そのような非実際性から生じたのです。世界大戦は、文明の崩壊のはじまりにすぎません。ですから人類は、意識をさらに眠らせつづけないことが大切です。
 とくに教育の分野では、眠りつづけていると取り返しのつかないことになってしまいます。〈身体・心魂・精神〉からなる人間の全体像を考慮した教育を受け入れることが、ほんとうに大切です。そのために、まず人間の身体・心魂・精神を真に認識することが重要です。
 ここでは、教育、授業において考慮すべき、身体・心魂・精神に関するもっとも重要なことがらのみを取り上げようと思います。最初に洞察すべき要件は、外面的にも人間の全体像にまなざしを向ける努力をすることです。
 今日では、どのように教育原則が形成されているのでしょうか。大人は子どもを見て、「子どもはこんなふうだから、なにかを学ぶべきだ」と、思います。「どういうふうに授業をすれば、子どもが早く習得するだろうか」と、考えます。
 ところで、子どもとはなんでしょうか。せいぜい12歳までが子ども、あるいは20歳までが子どもということになるのでしょうか。それは、いまは問題として取り上げるつもりはありません。ここでは、子どもはいつかは大人になるということを取り上げてみたいと思います。//
※まさに、わたしは「いつからおとな?」や《「こども」とは、だれか?》で、問うている。その結果、小学2年生までを子どもとし、小学3,4年生を移行期とし、小学5年生から(10歳から)をおとなとしている。

p19
//人生は全体で一個の統一体です。ですから、わたしたちは子どものみを見るのではなく、人生全体を見渡さなくてはなりません。生まれてから亡くなるまでの人生全体を見る必要があるのです。
 顔色の青白い子どもが教室に座っているとします。その青白い子どもは、教師にとって一個の謎です。その謎を教師は解かねばなりません。さまざまな原因があるでしょう。
「この子は今朝、健康な赤い頬をして学校に来たのに、わたしの授業によって青白い顔色になってしまった。なぜこの子が青白くなったのか、わたしは判断できなくてはいけない。もしかしたら、この子にわたしはあまりにたくさんのことを記憶させたのだろう。わたしは近視眼的な教育をしていることになる。そうしないと、子どもが青白い顔をしていようと赤い頬をしていようとかまいなく、ひとつの方法をやりとおしてしまうことになる」という場合もあります。
 もし50歳になったその子を観察できれば、おそらく恐ろしい硬化症に苦しみ、原因不明の動脈硬化になっていることでしょう。その原因は、8歳、9歳のときに記憶力に負担をかけすぎたことにあるのです。//
※どんな因果関係があるの? 機序が想像できない。多くの人にとって、わからないと思う。これには納得させるだけの展開が必要だろう。
p20
//50歳のときと8歳、9歳のときは、たがいに関連しています。どちらの時点においても、おなじ一人の人間です。子どもに対しておこなったことが40年後、50年後にどのような結果を引きおこすかを、わたしたちは知らねばなりません。人生は全体で一個の統一体をなしているからです。たんに子どもを知るだけでは十分ではありません。わたしたちは人間を知る必要があるのです。//
※本書の著者紹介(p236)には、//哲学、教育学のほか、芸術学、社会学、医学、農学の分野で独自の業績を残した。// これをアカデミックな業績と理解してよいだろうか。であれば、上述 //わたしたちは人間を知る必要があるのです。// という文に綴られるのか? 信ずる/信じられる関係にあるのでなければ、こういう展開はやめてほしい。
p21
//ライオンや猫などの概念をはっきりさせるために、できるだけよい定義をしようとするとしてみましょう。子どもは、その概念を死ぬまで保っていられるでしょうか。今日では、心魂も成長するということが、まったく予感されていません。ただ一つの概念を子どもに教え、その概念を一生のあいだ保持できるべきだとするとしてみましょう。
 それはあたかも3歳の子どもに靴を買ってやり、その後ずっと、3歳のときとおなじ大きさの靴を与えつづけるようなものです。子どもは成長していきます。ですから、3歳のときに買った靴の大きさに合うように、子どもの足を小さいままにしておこうとするのは野蛮な行為だと見なされます。//
※こんな説明に納得する人、いないでしょう!
p21
//しかし心魂に関しては、わたしたちはそのようなことをしているのです。わたしたちは子どもに、その子とともに成長するような概念を与えてはいないのです。そのままにとどまる概念を、わたしたちは子どもに与えています。成長しうる概念を与えるべきなのに、そのままにとどまる概念を与えることによって、わたしたちは子どもを苦しめています。子どもの心魂は、わたしたちから得た概念のなかに押し込められているのです。
 教育においては、人間についてのなんらかの抽象的な概念ではなく、成長していく生きた人間の全体像を注視すべきだということが第一に要求されるのです。//
※この末尾一文については異議はない。この結びに辿りつく論理展開は納得がゆかない。つまり、人智学でなくても、この結びに導くことは可能だ。


以上、p9~21 全文。

(“批判”が目的で書き写したが、疲れた! 乗り気になれない文章とつきあうのは、しんどい)
 ルドルフ・シュタイナーが唱える人智学とは何か? これの探究に、さらにつきあおうとする人は”これから”だが、わたしは無理! ついてゆけない。

シュタイナーがいう「7年(7歳)」の意味

p26
//その身体を人間は、乳歯が永久歯に生えかわるときまで持ちつづけます。すべてではないにしても、本質的に、わたしたちの外的な物質素材は7歳から8歳までに、すっかり交換されるのです。わたしたちが最初に得た乳歯は永久歯に生えかわり、その永久歯がわたしたちのものとして残ります。そのようなことは人体器官すべてに関して生じるのではありませんが、人間が地上にいるかぎり、歯よりも重要な器官はすべて7年ごとに交換されます。もし歯もそのように交換されれば、7歳のときと同様に、14歳、21歳のときにも生えかわることでしょう。そうなると、歯医者はいなくなるでしょう。//
※仮定の話なのか? それとも、裏付けのある話なのか? そして何よりも、なぜ「7」という数値、その倍数なのか?
p26
//いくつかの固い器官はそのままにとどまり、柔らかい器官はつねに更新されるのです。生まれてから7歳までは、両親から与えられた身体を人間は有します。それは一個のモデルです。芸術家がモデルに向かい合って、そのモデルを模写するように、人間の心魂はこの身体に向かい合います。//
※ここでいう「一個のモデル」は、統一体としての一個の人間を意味している。
p27
//7年間かけて、人間は両親から与えられた最初の身体から、第二の身体をしだいに引き出していきます。両親から与えられた身体モデルにしたがって、第二の身体を自分で作るのです。こうして、自分で作った身体を人間は7歳以降有することになります。
 今日、外的な科学が遺伝その他に関して語っていることは、現実にくらべると素人の道楽のようなものです。現実には、わたしたちは一個の身体モデルを得て、それを7年のあいだ保持するのです。もちろん、生後しばらく経つとその身体は崩壊しはじめるのですが、それでも7年間は維持されます。そして、乳歯が永久歯に生えかわるとき、わたしたちは第二の身体を得るのです。//
※やはり、なぜ「7年」なの?
p27
//虚弱な個性の人がいます。そのような人は虚弱に地上に下り、乳歯が永久歯に生えかわるときに、第二の身体をまったく最初の身体のとおりに作ります。両親にそっくりだ、とわたしたちはいいます。それは事実ではありません。彼らもモデルにならって、第二の身体を作ったのです。
 生まれてから7年間、わたしたちは遺伝されたものを自分のなかに持っています。もちろん、わたしたちの個性は多かれ少なかれ弱いものであり、遺伝された身体に非常によく似た第二の身体を形成します。しかし、地上に下って、生まれてから7歳までのあいだは遺伝を多く保っている強い個性も存在します。
 わたしたちはそれを歯に見ることができます。乳歯には、遺伝への柔順さが見られます。永久歯は肉の盛り上がりを持ち、ちゃんと噛みくだきます。それが、正規に形成される強い個性の現われなのです。//
※なんだかなあ……。こんな解釈で、いいの?
p28
//10歳になっても4歳の子のように模像を保っている子どももいますが、そのほかの子どもたちは10歳で一変します。強い個性が活動するのです。モデルは利用されますが、のちに独自の身体を形成するのです。//
※わたしはこの10歳からを「おとな」としている。子どもを観察していれば、多くの人が観察し認めるだろう。人智学が作用しているのではない。
p28
//このようなことを洞察しなければなりません。このようなことを洞察しないと、遺伝ということに関して認識が進みません。今日の科学が主張しているような意味での遺伝は、人間が生まれてから7歳までのあいだにのみあてはまるものです。それ以後なにかを継承するなら、それは自由意志で受け継いでいるのだということができます。すなわち、モデルにしたがって、形成していくのです。現実には、遺伝されたものは最初の身体とともに、歯牙交代のときに突き落とされるのです。//
※頻出する「モデル」は、統一体としての一個の人間を意味している。
p28
//精神界から下ってきた心魂は不器用です。わたしたちの心魂は、地上に下ってから外的な自然に精通していかねばなりません。子どもの行儀の悪さは喜ばしいものなのです。もちろん、わたしたちはすこし俗物になって、行儀の悪さをすべて見過ごすということのないようにしなくてはなりませんが、いかに精神が地上の魔物によって苦しめられているかを、たいていの子どもに認めることができます。子どもは、しばしば自分にはまったく適さない世界に入ってこなくてはならないのです。//
※シュタイナーさんがいきなり凡人! 行儀が気にかかるのね。
p29
//もし、意識をもって地上に入ってこなくてはならないのなら、それは恐ろしい悲劇です。イニシエーションについての知識があって、子どものなかでなにがその身体を把握するかを見るなら、「自分で作っていかなくてはならない骨や筋のなかに魂が入っていくのは、ぞっとするようなことだ」と、いわなくてはなりません。それは、恐ろしい悲劇なのです。子どもは、そのことを知らないだけなのです。そして、知らないのはいいことなのです。物質世界と精神世界の境域を見張る存在が、子どもがそのようなことを知ることのないように守っているのです。
 しかし、教師はこのようなことを知らねばなりません。教師は非常な畏敬の念をもって子どものまえに立ち、「神的──霊的なものが地上に下ってきたのだ」と、知らねばなりません。そのように知り、このような思いがわたしたちの心臓を貫くことによって教師になることが大切なのです。//

以上。p26~29、全文。

ルドルフ・シュタイナー『メルヘン論』書肆風の薔薇 1990年
p214
※訳者:高橋弘子による「註」
//シュタイナーは人間を、自我、アストラル体、エーテル体、肉体という四つの構成部分からなる存在と見做していた。『神秘学概論』、『アカシャ年代記より』(高橋巌訳、国書刊行会)の中でシュタイナーは、人間の進化を壮大な宇宙史の中で叙述し、高次の存在たちによってこれら四つの構成要素が段階をおって人間存在に附与されていく過程を描いている。シュタイナーによれば、人間の起源は「土星紀」にまで遡る。このとき非常に高い位階の霊の動きによって、もっとも希薄な物質である熱が生じる。そして人間の肉体の原型が生じた。次に「太陽紀」になってエーテル体(生命)が、「月紀」にはアストラル体が、そして現在の「地球紀」に自我が人間に与えられる。これらの構成要素はそれぞれ進化を続けるため、いちばん古い肉体がもっとも完成されており、自我は肉体やエーテル体に較べるとごく幼い段階にある。自我とともに人間には利己心が吹き込まれ、「悪」が発生する。しかし、それとともに人間には、初めて神々の導きから独立して生きるための自由の可能性が与えられるのである。「地球紀」の後には「木星紀」が続くとされる。//

松井るり子『七歳までは夢の中』
親だからできる幼児期のシュタイナー教育

ルドルフ・シュタイナー『人間理解からの教育』筑摩書房 1996年
p30~35 節のタイトル //年齢に応じた教育の課題//
以下、全文。
p30
//人間が地上に下るまえの、精神的──心魂的な生のありようと、生まれてからのありようには大きな差異があります。子どものなかには精神界の作用があります。ですから、教師はその差異を判断できなくてはなりません。心魂が精神界の生において有していなかったために、子どもが身に付けにくいものがあるのです。
 地上の人間は、自分の身体内部に注意を向けることが非常にすくないのです。自然科学者と医師のみが、身体内部に注意を向けています。彼らは、人間の内部がどのような状態かを正確に知っています。ふつうの人間は、心臓がどこにあるのか、正確には知りません。心臓はどこにあるのかと尋ねられると、たいてい、まちがった場所を指し示します。右の肺翼が左の肺翼とどう異なっているかを問い、十二指腸を叙述するように求めると、おもしろい答えが返ってくることでしょう。//
※十二指腸は、さてどこだろう? わからないなあ。心臓は胸のほぼ中央でしょう。肺の右と左、どう違うの?
p30
//反対に、地上に下るまえの人間は外界について非常にわずかの関心しか持っておらず、そのかわりに、自分の精神的内面に多くの関心を持っています。死から再受肉までの人生において、人間はもっぱら精神的な内面生活に関心を持っているのです。人間は前世の体験にしたがって、業(カルマ)を作ります。業を、精神的な内面生活にしたがって作るのです。//
※「関心」の意味がわからん。
p31
//その関心は、地上の特徴のひとつである知識欲、および知識欲が一面的に形成されたものである好奇心からは、非常に遠ざかっています。知識欲、好奇心、外的な生活の認識への執心を、生まれるまえ、地上に下るまえの人間はまったく持っていません。ですから、子どももそのような知識欲をわずかしか持っていないのです。
 反対に、子どもは周囲の生命をみずからに有しています。地上に下るまえの人間は、まったく外界のなかに生きているのです。全世界が内面なのです。外と内というような区別はありません。そのために、人間は外的なものにも好奇心を抱きません。すべてが内面なのです。そこには好奇心がありません。すべてを人間は自分のうちに担っており、すべては自明のことなのです。その自明さのなかに、子どもは生きます。//
※「自明」の意味が、わからない。
p31
//人間は7歳まで〈歩行・発話・思考〉を、地上に下るまえにおこなっていたように学びます。ですから、ある言葉に対する好奇心を子どもに持たせようとするなら、その言葉を学ぶ喜びを子どもから取り除くことになるのです。知識欲、好奇心をあてにすると、子どものあるべき姿を取り除くことになります。好奇心を計算に入れてはなりません。もっと、ほかのものを計算に入れるべきなのです。
 子どもが自然に夢中になり、教師が子どものなかに生きるということを考えに入れるべきです。子どもが楽しむものすべてが生命的で、子ども自身の内面のようでなくてはなりません。子どもの腕がその子に印象を与えるようなしかたで、教師は子どもに印象を与えなくてはならないのです。教師は子どもの身体のつづきであるかのようでなくてはならないのです。//
※「子どもの腕がその子に印象を与えるようなしかた」……わかりにくいなあ。
p32
//ついで、乳歯が永久歯に生えかわり、7歳から14歳のあいだの年齢に入ると、好奇心、知識欲がしだいに現われてくることに注意しなくてはなりません。好奇心がしだいに呼び起こされるのを注視しなくてはならないのです。//
※7歳、14歳……7の倍数
p32
//小さな子どもは、まだ好奇心を持っていません。小さな子どもに対して、大人は自分という存在そのものによって印象を与えなければなりません。粉袋が周囲に好奇心を抱かないように、小さな子どもには好奇心がありません。しかし、粉袋を指で押してみると、とくに小麦粉がよく碾かれていれば、押した跡が残ります。そのように、小さな子どもの場合、好奇心にうったえるのではなく、子どもと一体になることによって、粉袋に指で押した跡が残るように、すべてが幼児のなかに保持されます。
 乳歯が永久歯に生えかわると、事態は異なってきます。子どもがいかに、「それは、なになの」と尋ねるかに注意しなくてはなりません。「星はどうやって見ているの」「どうして、空には星があるの」「おばあちゃんはどうして鉤鼻なの」というふうに、子どもはあらゆることを質問します。子どもは周囲に好奇心を持つようになるのです。
 どのように好奇心と注意深さがしだいに現われてくるかについて、教師は繊細な感受性を持っていなくてはなりません。好奇心と注意深さが、永久歯とともに出現するのです。好奇心と注意深さが現われるのは、永久歯が生える年齢においてなのです。この時期には、子どもに向かい合い、大人が子どもとおこなうことについて、子どもに判断させなくてはなりません。歯牙交代とともに子どものなかに目覚めるものに、大人はいきいきとした関心を持たなくてはならないのです。//
※永久歯が生える年齢とは、いつ頃だろう。5歳児クラスになると、「歯が抜けた」とか「グラグラしてる」という子に出会うなあ。
p33
//子どもは目覚めますが、悟性によって好奇心を持つのではありません。7歳の子どもは、まだ悟性を持っていません。7歳の子どもに教えるときに、悟性にうったえようとするのは、まったくまちがっています。子どもは空想力を持っているのです。教師は、その空想力を考慮に入れる必要があるのです。//
※悟性……//自分の理解した諸事実などに基づいて、論理的に物事を判断する能力。//新明解国語辞典第三版
p33
//〈心魂的なミルク〉という概念を発達させることが、たいへん重要です。生まれたあと、子どもには身体的なミルクを与えねばなりません。ミルクが食物であり、子どもにとって必要なものすべてがそのなかに含まれています。子どもはミルクを飲むことによって、すべての養分を摂取するのです。
 いまや子どもに、個々のものを与えるのではなく、与えるものすべてが心魂的なミルクでなくてはなりません。乳歯が永久歯に生えかわり、子どもが学校に通うようになると、子どもに与えるべきなのは心魂的なミルクという単一体なのです。
 子どもがあるときは読み方を習い、あるときは書き方を習うと、あたかもミルクを化学的に二つの部分に分解し、まず一方、ついで他方を与えているようなことになります。読むこと、書くこと、すべては一体でなくてはなりません。子どもが小学校に入るときには、〈心魂的なミルク〉という概念を子どものために見出さねばならないのです。
 それは、歯牙交代期から、授業を芸術的なものにすることによってのみ可能になります。芸術的なものが、すべてに浸透しているべきなのです。次講でくわしく述べますが、書き方の授業を芸術的に形成して、絵を描くことから文字を導き出すのです。絵を描くことから字を書くことへと進み、字を読むことに移ります。子どもがかんたんな方法で成し遂げうる、読み方と書き方のすべてが芸術的に形成されて、一体をなしていなくてはなりません。そのようなものが心魂的なミルクとして、まず作り出されなてはならないのです。小学校に入った子どもには、そのような心魂的なミルクが必要なのです。
 そして、子どもが思春期に達すると、〈精神的なミルク〉が必要になります。今日のような唯物論的な時代においては、人間はもはや精神を有していないので、精神的なミルクをもたらすのは非常に困難になっています。精神的なミルクを作り出すのは非常に難しいのです。わたしたちは精神的なミルクを持っていないので、少年少女を生意気で乱暴になるがままにさせています。
 これが序論として、みなさんに申し上げたかったことです。これから考察をつづけ、個々の詳細に入っていきたいと思います。//

以上。
(以降の節タイトル一覧)
模倣と想像力 / 書き方の授業 / 物語 / 植物学 / 動物学 / 懲罰 / 教師の条件 / 形態感覚 / 算数 / 幾何学 / 芸術教育 / 外国語 / オイリュトミーと体操 / 生活に結びついた授業 / 現実に即した授業 / 学校組織について

2023.11.17記す
 

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