
おとなの立場で年少者を認識するとき「こども」かどうかは、わが子と他人とでは違うだろう。すっかりおとなに成長して既婚者となっても親にはいつまでも「こども」とする一方「おとな」であることは間違いない。こうしたこととは縁を切って、自立した個として「こども/おとな」区分を考えたい。
「区分」と言いながらも、そこはシームレス(つなぎ目がない)だ。個人差もあろう。そこで、一つのアイデアを提案する。こどもからおとなになるまでの間、3回(期)にわける。
小雨のなかを野外活動に向かう5歳児の集団。子どもたちは、カッパを身につけていた。「ここまでしか、とまらへん」と少女は言った。ボタンを2つ止めたところで、うす茶のあたたかいジャンパーがのぞいていた。「おかあさんがユニクロで買ってくれた」とうれしそう。それを隣で聞いていた男児が「あかあさん、ユニクロで働いている」と。子どもたちの暮らしが一気に描けた。
ボタンが2つで止まってしまったのは、大きくなった、ということでもある。冷たい雨だが、心温まる風景だ。
カッパの頭部分が後ろ向きに はずれていて、かぶっている帽子がぬれている。カッパの頭をひきあげてあげようかと思ったら、手をまわして、器用に自分でかぶりなおした。5歳児のすることは、もう一人前だ。
2歳半から小学2年生までを、私は「幼児」と区分し、4歳までを「前期」、5歳からを「後期」としている。幼児後期は2年生まで続く。
「こども」とは、だれか?──と、ときおり憤りを伴って思うことがしばしばある。こどものために、と謳いながら、こどものためになっていない事例が多い。「子供だまし」の表現が意味することと同一ではないが、似ている。ときには大切にされ、ときにはいい加減にされている。
「こども」とは、あかちゃんから小学2年生まで。焦点を絞れば、幼児後期が「こども」に相当する。
小学5年生からは、(わたしは)明らかに「おとな」なのだ(としている)。小学3・4年生は、その移行期とみている。子どもが移行するのではない。おとなが見方を変える、おとなに猶予を与える移行期だ。
こんなふうに捉えると、こども期は、あっという間で、わずかな期間でしかない。こどものために、と謳うならば、低学年や幼児に対して、社会はもっともっと真剣に取り組んで欲しい。
※グレーの部分
「移行期」としているが、以下 記すように「第二次主体形成期」に相当する。
第1次主体形成期 誕生~およそ2歳半ば こども(~2年生)
第2次主体形成期 小学3年生,4年生 8~10歳 移行期
第3次主体形成期 高校2年,3年 ~ およそ25…30歳 おとな

母から生まれ出たそのときに始まり、およそ2歳半ばぐらいまでであろうか。親(母)子のあいだに「間主観性」で説明される主体形成の時期がある。やがて母から離れ、母とは限らない他者(人とは限らない)とも、間主観性は成立する。鯨岡峻は「相互主体性」を主張し、間主観性の成立時期も個の確立として個の主体性は存在するという(※2)。
※2……鯨岡峻『ひとがひとをわかるということ 間主観性と相互主体性』ミネルヴァ書房 2006年
p148
//間主観的にわが子の気持ちが分かるのは、まずもって子どもを一個の主体として尊重し、その気持ちを受け止めようとしているからこそです。//
p148
//ここに、養育者側からの間主観的な把握が生まれる条件として、相互主体的な関係の問題が見えてきます。
他方、乳児の方も、自分の思いを養育者に受け止めてもらえることを当然のこととして(基本的信頼)、自分を表現し、周囲世界に出かけたり、関わったりして、それを取り込み、自己発揮していくことになりますが(主体の一方の面)、そうしているうちに、自分が信頼を寄せているその他者も、単に自分の要求を満たしてくれるだけの人ではなく、その人の様子から、その人にもさまざまな思いがあるのだということに少しずつ気づき始めるのです(主体のもう一方の面)。この主体の二面性が形成される過程が、相互主体的な関係においてであるということ、これがいま私がもっとも強調したいところです。//
第1次主体形成期 誕生~およそ2歳半ば こども(~2年生)
第2次主体形成期 小学3年生,4年生 8~10歳 移行期
第3次主体形成期 高校2年,3年 ~ およそ25…30歳 おとな

小学3年生と4年生、年齢では8歳から10歳までの期間、「おとな」への移行期として第二次主体形成期が現れる。およそ8歳までの幼児期と別れ、新たな主体形成に進む。身体的には「こども」だが、心(精神)は変容し自立の様相を高める。昆虫に喩えて申し訳ないが、終令前のさなぎまたは幼虫で、成虫/羽化への準備をしている。
第二次主体形成期の終了でもって「おとな」になる。小学5年生から「おとな」だ。日常生活の感覚では違和感があるかもしれない。わが子は自立したいと思っているだろうし、主体的思考や行動をとるだろう。「いつからおとな?──で、遊びを考える」で「つまずきの乗り越えかた」を述べた。つまずいたときに「おとな/年長者」が手をさしのべる、ということでよいのではないか。
あかちゃん(乳児)を除いて「こども」とは、
4年生、9歳まで!(が、わたしの考えかた)
加古里子『伝承遊び考 4 じゃんけん遊び考』p40 小峰書店 2008年
// 江戸時代までの、日本の大人たちが生活していたのは、身分制階級社会であり、子どもはそうした大人に対して小人、小供の存在であり、明言するなら添加者、邪魔者、ガキでしかなかった。したがって子どもに関することなど、よほどのことがない限り、文書や記録から除外されるのが常であり、ましてその遊びなどは「児戯に類する」どころか「児戯そのもの」であるから無視されるのは、当然であった。しかしそんな時代でも子どもは存在し、そして間違いなく遊んでいた。//
第1次主体形成期 誕生~およそ2歳半ば こども(~2年生)
第2次主体形成期 小学3年生,4年生 8~10歳 移行期
第3次主体形成期 高校2年,3年 ~ およそ25…30歳 おとな

高校2年生から3年生頃。見当外れかもしれない。年齢の幅を具体的に提案できるようなイメージが湧かない。シームレスながらも画期として認められないだろうか。人類社会の「成人」と認知される。
脳の発達は25~30歳で最終段階に到達するという(※3)。肉体、心(精神)の発達について、やっとこさ「おとな」に到達する。
※3……山口和彦『こどもの「こころと脳」を科学する』ジャパンマシニスト社 2022年 p56
「旅の適齢期=26歳説を真に受けて…」十勝毎日新聞 2021.8.18
+ 作家の沢木耕太郎は旅に適齢期があるとし、これに26歳をあてている。

フィリップス・アリエス
『〈子供〉の誕生』読書メモ
//現在、私どもに自明と思われている「子ども」なるものが、たかだか18世紀以降の歴史的な観念であるとは、最近しばしば話題とされているところである。アリエスの大著『〈子ども〉の誕生』の訳出が、恐らくはきっかけの一つを提供したのであろう。彼は、アンシャン・レジーム期のフランス社会における「小さい人々」の生活を様々に洗い出すことを通じて、「子ども」および「子ども期」という観念が、近代的な家族の形成に伴って出現する、一種の近代的「制度」であったことを明らかにしている。// 本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫 1992年 p16

本田和子
子ども100年のエポック 読書メモ
異文化としての子ども 読書メモ

2022.7.31更新
2022.7.23記す