力のない者、何かが足りない者、”おとな”に及ばない者、泣き虫、子ども騙し。子どもをイメージする言葉は数多くある。法によれば、二十歳成人や十八歳未満の文言、児童福祉法の定めや区分があり、「児童・生徒・学生」は法律用語でもある。
高校3年生や大学1回生は、親にしてみれば、まだ「こども」ということになるか? 世間話で交わされる「こども」は関係性の理解で用が足りる。しかし、今どきの「若者/子ども」、あるいは、子ども向けや子ども対象については曖昧である。つまり、イメージされる「こども」とは? 子ども向けイベントで集まってみれば、低学年ばかりで高学年がとまどうことも。
当サイトは、乳幼児の発達や「こども」の遊びを問うたりしているので、「こども」の概念をはっきりさせておきたい。
「こども」ナビ
1)いつから「おとな」で、遊びを考える。
2)「九歳の旅立ち」を命名する
3)主体論
4)アカデミックな「子ども期 Childhood」理解……
5)年齢による発達段階
番外)「こども」表記:子供、子ども、子どもたち、等々
番外)発達の区分や臨界に留意しておくこと
アカデミックな「子ども期 Childhood」理解……
ギル・ヴァレンタイン『子どもの〔遊び・自立〕と〔公共空間〕』明石書店 2009年
p10
//子どもが大人とは別のものとみなされ始めたのは16世紀になってからのことであり、人間の一段階としての子どもという考え方がわたしたちの社会的想像力において支配的になってきたのは、啓蒙時代以降のことである。//
1-1)悪魔である ディオニソス的な子ども観……17世紀
p11 子どもは野蛮人、悪魔
//子どもは原罪を引き継いだもの、つまり動物に似た本能-野性を持ったもの//
//子どもは生得的に罪深いものだが、親の不断の確固たる努力によって回復しうるものとみなされていた//
1-2)天使である アポロ的な子ども観……17世紀末
p11 生まれつき善性
……//を持っているのに、それが子どもたちの育っていく社会によって台無しにさせられてしまう//
//良心や社会的ふるまいへと向かう基礎となるものとして、生得的な「共感」や「善意」といった原理を前提にしている//
18世紀
ブレイク、コールリッジ、ワーズワース、ルソー……無垢さの理想化。
p12 ルソー『エミール』
//子ども期を共感をもって情緒的に描写しており、子どもを危険視していた暗黒時代から、啓蒙的関心の時代への転換を記した功績を持つものと考えられる場合も多い//
p12 18世紀後半 無垢ではなく堕落した性向と邪悪な傾向。矯正を旨とする教育対象。
//ヨーロッパで革命が起こり、不安定さが増すにつれて、イギリスでは秩序ある社会を切望する保守的な著述家たちによって、子どもの権利という考え方の問い直しが主張された//
--->> //子どもは無垢であり、生得的に善であるのに、悪にまみれた社会によって、子どもの善が侵されてしまうという考え方が、徐々に、そして断片的に、支配的な考え方として現れてきた//※一部エリートの考え方
19世紀 //工場における児童労働力の容赦ない搾取を特徴とした産業資本主義が併存//
p13
//児童労働に何らかの規制を設けようとする関心を、中産階級の改革論者たちの間にもたらした//
※子どもを労働から守るという観点は、子どもだけでなく、労働者一般の人権に通じ、
p13
//万人に通じる普遍的な教育が登場//
//教育は、それを通じて成人性を達成することができる基本的プロセスとなり、成人期への移行を示す基準となった//
※ここに、子ども期が発生する。
//子ども期を大人が負っている責任とは隔たりのある特別な時期だと考えるようになった転換を示すものであったということである。//
p14
//子ども期を送れなかったそれら〔労働者階級〕の子どもが、子ども期をまっとうした〔中産階級の〕子どもに対する脅威となることが最も懸念された//
※社会の分断が教育というシステムを生んだ。
19世紀後半~20世紀初め
……子ども期の大衆化・普遍性(成立)
p15
//法の整備と、より決定的には大衆教育の考案(さらに後には、国民健康保険制度)によって、神話的な状況としての子ども期という考え方が大衆化し、子ども期に関する普遍的な見方が徐々に現れてきた、とヘンドリックは論じている//
20世紀
p15
//20世紀、21世紀の福祉国家的保護主義の進展によって、子どもの教育的、法的、環境的、物理的状況、および人生における機会が様々に向上し、親によって子どもに投下される資源(たとえば、子ども向けのおもちゃ、服、食品、娯楽)が大きくなるにつれて、ますます子ども期を大人の世界からの保護が必要な、無垢で、危険な目に遭いやすい時期だと描くようになっていった。//
子ども期の、いま
p15
//20世紀になると、子どもが親に依存していると法的に定義される期間は、戦後、学校を卒業する年齢が14歳から16歳へと上がったのに伴って引き伸ばされ、また、より最近では、ティーンエイジャーが福祉給付を要求できる年齢が16歳から18歳へと引き上げられた福利厚生の変化に伴って引き伸ばされ(逆に、ニール・ポストマンのような論者たちは、メディア・ファッション産業、テクノロジーといったものが大人と子どもの境界をあいまいにし、子ども期は短縮されたと論じている)。
本田和子
子ども100年のエポック 読書メモ
異文化としての子ども 読書メモ
p17
//20世紀になって、首尾一貫した「万人に通じる」子ども期の考え方が出現した。すなわち、子どもの時間は、大人の世界のそれとは別のものであるという考え方(いつの時代にこのような[大人と子どもの]区分が起きたのか、ということについては複数の、相反する定義があるのだが)、子どもは無垢で、能力が劣っており、危険な目に遭いやすいので[親と国の両者に]依存しているという考え方、および、子ども期は責任から自由でいられる幸せで自由な時期だという考え方である。しかしながら、これは、大部分の子どもが体験する現実というよりも、子ども期の支配的なイメージでしかない。むしろ、その年齢期がそれ[年齢]以外の個人的状況と関連していて、貧困、身体の不自由、病気、ホームレスといった経験、保護された経験、病気の親を看病しなければならなかった経験などが、無垢と依存の時期という理想化された子ども期を多くの子どもたちから奪っている。同様に「成長」に関しても、社会的発達は肉体的成長に続いて起こり、それが単純さから複雑さへの移行、非理性から理性への移行を表すという誤った想定に基づいてきた。改めて現実を述べるなら、多くの子どもたちが、成熟していること、責任を持っていることを幼い時から示さざるをえない状況にある(たとえば、親の代弁者として行動している子どもたちがいる)。その一方で、いつになっても未熟な大人も一部にいるのだ。//
無垢で、純粋で、……改めて思う
子どもは社会で守られなければならない存在である。子どもに限ることはないが、そうだろう。その根拠が、子どもは弱いから。「弱者」はほかにも存在するが、子どもに限って言えば、子どもを、あるいは、子ども期を理解または認識した上で、子どもを見守っているかのようなふるまいになっている。無垢だとか、純粋だとか、そういう形容ですませてきたことは、じつのところ「子ども」を見つめず、通過儀礼の如く、端(はた)に置いてきただけにすぎなかった。しかし、そうこうしているうちに、子どもに、子ども期に、危機が迫ってきた。いや、すでに陥っている。
日本の事情
およそだが、江戸期(半ばより)において、日本の子どもは幸せだった。おとなは子どもの面倒をみることに身を尽くした。しかし、明治期になって、政府や権力者は子どもに関心がなかった。それは、残念ながら今に続いている。
明治政府は西欧にならって法整備を行ったが、よく知られているように富国強兵が柱だった。つまり、国民国家が建国方針だった。しかし、憲法がなく幕藩国家だった江戸期は、武士の子どもは不憫だが、農民の子どもは自由に遊んでいたようだった。子どもが遊んで日々をすごしたということは、社会を進歩させる源になっていたはずだ。しかし、明治政府は誤り、国民皆兵に進んだ。第二次世界大戦の敗戦後は経済復興、産業優先で、子どもはもとより国民生活はのちに、今の現実のとおり、強烈なダメージをこうむることになる。
それでも、「子ども期」は敗戦後しばらくは江戸期の系譜をひいていたが、高度経済成長期の終焉とともに、子どもの遊びは著しく衰退し、1980年~1990年にかけて、あるいは以降、かつての「子ども期」と言える状況ではなくなっていると、わたしは思う。営々と保つ続けてきた子どもの幸せを、近年の半世紀ほどで食い潰してしまった。おとなの罪は大きい。
フィリップス・アリエス
『〈子供〉の誕生』読書メモ
//現在、私どもに自明と思われている「子ども」なるものが、たかだか18世紀以降の歴史的な観念であるとは、最近しばしば話題とされているところである。アリエスの大著『〈子ども〉の誕生』の訳出が、恐らくはきっかけの一つを提供したのであろう。彼は、アンシャン・レジーム期のフランス社会における「小さい人々」の生活を様々に洗い出すことを通じて、「子ども」および「子ども期」という観念が、近代的な家族の形成に伴って出現する、一種の近代的「制度」であったことを明らかにしている。// 本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫 1992年 p16
ギル・ヴァレンタイン『子どもの遊び・自立と公共空間』明石書店 2009年
p10
//アリエス(おそらく最も有名な子どもの歴史家である)は、中世の頃には、子どもは年齢によって社会的に(大人から)区別された存在というより、むしろ小さな大人と見られており、そのため大人と子どもの間には特別な違いは何もなかったと論じている。//
//ひとたび、理性や集中力、強さなどの能力を示しさえすれば、彼ら〔子ども〕は家事、徒弟制度、および教育の中で大人の役割を引き受けていた。//
原書タイトルは Public Space and the Culture of Childhood。直訳すれば「子ども期の公共空間とザ・カルチャー」。日本語版タイトルにある「遊び」が見当たりません。
子どもの遊びは、子どものカルチャーそのもの。その遊びには空間が必須であり、その条件整備において社会的つまり「公共」の視点が欠かせない、ということか。
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守屋光雄 & かこさとし ── 遊びの理論
戯曲「夕鶴」:木下順二 わらべ唄と子どもの遊び
+「わらべうた」と音楽教育
The Renaissance of Childhood 子ども期の再生
2023.12.7更新
2022.7.23記す