「子どもの遊び」において、乳幼児に限ったとき、発達への最大の貢献は「つまずき」であろう。ここでいう「乳幼児」とは、新生児に始まって7歳(学齢では小学2年生)までを念頭に置いている。小学5年生に達すると”おとなの論理”が加わる。この関連で、8歳・9歳を対象に加えてもよかろう。しかしながら、「つまずき」とは何か?──を、検証しておきたい。
ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』。本書において、前2000年紀末までは、つまり現代より4000年前までは、人間は「意識」を持たなかった。神に支配されて「意識」を必要としなかった、という、驚くような主張(仮説)が述べられている(詳細の一部)。神を排除して時間を自身でコントロールするためには空間化思考が必要になってくる。空間化思考を得たことで人間は「意識的思考」が実現した。この考察に基づくのが以下である。
p556
//出来事や経験を位置づけたり、思い返したり、予想したりできる、空間化された新たな時間は、意識上に自己を築き上げただけでなく、人間の感情にも劇的な変化をもたらした。私たち人間には、ほかの哺乳類と共通するあまり整然としない情動がある。情動の神経基質は、はるか昔に自然淘汰によって脳の深部に位置する大脳辺縁系の中に組み込まれた。ここでは、恐怖、恥、交尾の三つにかかわる情動に言及したいと思う。//
p557
//心理学において、情動とは特定の解剖学的表出と特定の生化学を伴う、生物学的に体系化された行動を取らせるものを指す。そしてそれは、時間の経過とともに消え去る。しかしそこに意識がかかわると、事情は一変する。//
※以下に出てくる「恥」を「つまずき」あるいは「つまずく」と置きかえて読んでみたい。
p559
//ここで考察したい第二の生物学的〔第一は恐怖〕な情動は恥〔以下「つまずき」と読みかえる〕だ。恥は社会の中で喚起される情動なので、動物についても人間についても、実験により検証されることはほとんどなかった。これは複雑な情動であり、その誘因となる刺激は、高度な社会組織を持つ動物ではヒエラルキーの維持にまつわるものが多い。また恥は、ヒエラルキーのある集団から拒絶されたときに見せる服従反応でもある。こうした生物学的な意味での恥が、肉食動物の群れで支配原理として機能しているのは明らかだが、霊長類、ことに人間においては、いっそうはっきりと見てとれる。私たちは恥について話すことも恥ずかしがるようだ。実際、大人になるまでに、私たちは過去の恥によってきっちりと枠にはめられ、社会的に許容される行動の狭い帯域内に閉じ込められてしまうので、恥をかくことはほとんどなくなる。
だが、子供時代を思い返してみよう。仲間から拒絶されて受けた、胸のうずくようなつらいトラウマ、私的な場所を出てうまく外の世界に入っていけないのではないかという恐怖、またうまくいかなかったときの苦悩、とくに、性や排泄の機能にかかわる事柄、周囲の子供たちや自分自身のトイレでの失敗などは深刻だ。そこまでひどくないにしても、ほかの子と同じような格好をしたいとか、同じようにバレンタインの贈り物がほしいとか、みんなと同じよう引き立てられたいとか、経済状況や健康や将来の見込みの点でほかの親に劣らぬ親がほしいとか、殴られたりいじめられたりしたくないなどと考えるもので、ときには非常に学業に秀でた子が普通の成績になりたいと望むことすらある。どれも、絶対に目立たず、周囲に溶け込んでいようとする気持ちの表れだ。こうした経験は、私たちの成長に非常に強く深い影響を与える。ここで心に留めるべきは、成長するにしたがって、自分を取り巻く集団は身近な同輩というよりも、家族の伝統、人種、宗教、社会的つながり、職業などの色合いを強めていくという点だ。
恥や屈辱の生理的な表出には、赤面はもちろん、目を落としてうな垂れるといった劣勢もあり、行動上の表出としては、集団からすっかり身を隠すといった行為が挙げられる。残念ながら、こうした表出の生化学的あるいは神経学的根拠は、まったく解明されていない。//
「つまずき」の必要と背景
いつから「おとな」で、遊びを考える。
科学クラブ4+
誰しも、つまずきたくない。恥をかきたくない。仲間に入っていたい。つまずきは、心にキズを負うことになるが乳児(2歳まで)のときはそのキズを自ら背負うということはなかろう。間主観性が成立している時期だから、自己は保護されている。したがって、この時期のつまずきは学習に向かう。
およそ5歳の誕生日を迎えるまでは他者理解が進まない。友達とのトラブルは他者を認識できないわけで、つまるところ、トラブルが生じても自身の”反省”につながらない。「意識」が芽ばえてくるのは、およそ5歳からであろう。5歳未満のトラブルは外界への関心を高めるときだ。外界志向を支えるために、5歳未満のつまずきを理解することは、見守るおとなの課題である。
5歳以降小学2年生(または4年生)までの「つまずき」は極めて重要な基盤をなすだろう。この時期のつまずきは、当事者として子ども本人が自覚することが必須で、主体者として「つまずき」を受け入れられる環境を整えておくことがおとなの責務と言える。
つまずく機会とその保障(社会環境)
つまずく機会は、子どもの遊び集団に期待したい。しかし残念ながら、子どもの遊び集団は”絶滅危惧種”に喩えてよい状況である。では、どうするか!
つまずきは幼少時に多く体験するのがよい。年長になるにしたがい、つまずきを避けようとするのは当然だ。ジェインズの恥に通じ、おとなになってからの恥はときに心深くキズになる。
つきずきの意義を探求し、理解し、小学5年生以降あるいは成年に達しても、「つまずく」機会を社会的に容認するには、どうしたらよいか? ということになろう。むずかしい課題である。
ひと言付け加えれば、幼少時から青年期、失敗なく思い通りに進路を歩めたとして、果たしてサクセスストーリとして完結するだろうか。つまずいてこなかったことを後悔しないよう幸運を祈る。
2024.10.14記す