|||||「つまずき」の必要と背景 |||

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 学歴や職歴を検討するとき、わたしは「椅子取りゲーム」を思い浮かべてしまう。ひとつずつ減らされていくゲームに勝つためには「つまずき」は許されない。
 新明解国語辞典第三版によると、//【つまずく】爪突く意。(1)歩く時、足が物に当た(って、よろけ)る。(2)途中で障害にあって失敗する。//
 わたしたちは、いつか必ずつまずく。何度もつまずく。「つまずき」が許される社会こそが健全だ。「社会」自身も「つまずき」を抱え込んで成長する。

 「つまずき」は、子どもが「遊び」で学ぶ貴重なチャンスであり財産だ。
 ※いつから「おとな」で、遊びを考える。

 「つまずき」は、自身が「つまずいた!」と自覚することが必要条件である。他者から指摘されて気づき、それを悟りと受け入れ、悔しさを伴いながらも「つまずき」を認めたとき、学びへの道は拓かれる。「こころのつまずき」は、実のところ容易ではない。
 4歳くらいまでの幼児は「つまずき」を「つまずき」とは自覚しないだろう。失敗したら次は失敗したくない、とは思うだろうが、「こころのつまずき」とは異なる。泣いてすませられることが多い。
 5歳では、どうか。泣きたくても我慢する場面に出会う。そこなんだ! 「こころのつまずき」を自覚したから、泣くことを我慢しようと試みる。
「心の理論」THEORY OF MIND

 走ってつまずく(こける)。痛くて泣く。血が出て泣く。5歳では我慢することもある。身体的な「つまずき」と、「こころのつまずき」は微妙な関係にある。
 わたしはそそっかしく、駐車場の車止めにつまさきをぶつけた。血がにじみでる。でも泣かなかった。
 つまずいて池にはまる。つまずいて崖から落ちる。つまずいたのは確かだが倒れ込みが激しく負ったケガがひどい。これらは「つまずく」と表現しない。ダメージ次第か。

 デズモンド・モリス『裸のサル』文庫版 p253
//医療が合理的になってゆくのにつれて、その非合理的な要素が見逃されてくるようになった。このことを理解するためには、重大な「病気」とちょっとした「病気」とを区別することがどうしても必要である。//

 《重大な》に対して《ちょっとした》という形容でもって「病気」を対比している。 『野外における体験活動保育運用指針』を私論で提案したとき、〈安全の確保と事故への配慮〉の項目で〈「軽度のケガ」の定義〉を設けた。ケガを一律に認識するのでなく、「軽度ではない」ケガと区別しておきたいと思った。とはいえ、これは理念で、実際に適応させるにはハードルの高さを意識せざるを得ない。途方に暮れる思いだったところへ、デズモンド・モリスの論考に出会った。
 モリスは動物学者で、彼はサルの「毛づくろい」を演繹させて「ちょっとした病気」への対応を述べている。観察で見られる「毛づくろい」は「社会的毛づくろい」の機能があり、サル社会を支える重要なコミュニケーションであるという。
 われわれヒト(人間)は、医療が進歩するにつれて「社会的毛づくろい」を見失ってしまったということだ。ひるがえって、子どもの「遊び」効用に結びつく。「つまずき」が「軽度のケガ」であり、「こころのつまずき」が「ちょっとした病気」であるうちに、双方をより多く体験しておくことで「おとな」になれる──ということではないかと思う。
 子どもの「遊び」がわれわれ社会に不可欠であることを、即ち「つまずき」が許容されることの必要を切に願いたい。

2023.8.1記す

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