||||| 新渡戸稲造『武士道』第3章:義 |||

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正義に生きる。〈智〉に通ずる。

 「第3章 義」は、//義は武士の掟(おきて)中最も厳格なる教訓である// と冒頭に始まる。江戸の末期、泰平が長く続き、武士階級の生活に余暇が生じ娯楽と文化が繁栄した。その世相にあって庶民の心をつかんだのは〈四十七義士〉だった。〈四十七義士〉は「義」を呼び覚ました。「義」の意味するところは、ここを悟ることにありそうだ。
 義と義理は本来同じではなかった。//「義理」について述べよう。これは義からの分岐と見るべき語であって、始めはその原型(オリジナル)から僅かだけ離れたに過ぎなかったが、次第に距離を生じ、ついに世俗の用語としてはその本来の意味を離れてしまった。//……//義理という文字は「正義の道理」の意味であるが、時をふるに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになったのである。//
 //義理の本来の意味は義務にほかならない。しかして義理という語のできた理由は次の事実からであると、私は思う。すなわち我々の行為、たとえば親に対する行為において、唯一の動機は愛であるべきであるが、それの欠けたる場合、孝を命ずるためには何か他の権威がなければならぬ。そこで人々はこの権威を義理において構成したのである。//

 ここまでは、ふむふむと読んだ。義は義理と似ているがもとは違うということを。新渡戸はこの矛盾を糺す。家族において才能の優越に関わらずなぜ年長が貴ばれるのか、父の放蕩の費用を得るためになぜ娘は貞操を売るのか、義理においてこれらが正当化されるのは堕落であると撃つ。知性や理性によって義(ただ)すのが「義」であるとする。

 〈愛国心〉を事例に //それは最も美しきものであると同時に、しばしば最も疑わしきものであって、他の感情の仮面である// と、スコットの言を示す。このことは〈義理〉にも言いうるとする。//もし鋭敏にして正しき勇気感、敢為(かんい)堅忍の精神が武士道になかったならば、義理はたやすく卑怯者の巣と化したであろう。// と「義」の章を結ぶ。「義」が厳格に運用されることの必要を説く。「義」は「義理」と分かち「正義」に通ずる。

2019.11.18記す

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