||||| 新渡戸稲造『武士道』第7章:誠 |||

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誠なくして武士の道ならず

 第7章、〈礼〉の次は「誠」。//信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。//
 //「武士の一言」//……//「二言」すなわち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている。//
 ところで、この章は、これまでと趣きが異なる。『武士道』の書は1899年に著されている。明治32年。//締りのない商業道徳はじつにわが国民の名声上最悪の汚点であった。//とある。
 //正直と名誉とは商人たる債務者ですら証書の形式上提出しうる最も確実な保証たりしこと// 昨今の有名企業の詐称や偽装・不祥事・信用喪失・教育の荒廃などは、武士道にもとる、日本人の精神性への恥というべきものだろう。「教育」は何を教えてきたのだろうか。

 難攻不落と当初思っていた『武士道』だが、〈仁〉に出会ってから自分なりにだが、解を得た。〈勇〉は〈決心〉の意だ。〈仁〉は〈愛と優〉。〈義〉は〈義理〉ではなく〈正義〉の義だ。同じ〈日本人〉と意識して〈武士道〉を理解しようとしたのが、いけなかった。本書の原書は新渡戸稲造が英語で記した。西洋と東洋の文化の交流を図った。あるいはその違いを求めた。現代の日本からすれば、それは西洋と同じで、日本人であっても〈サムライ〉は外国語なのかもしれない。〈武士道〉は〈人の道〉と読み換えることで素直に読める。

新渡戸の義憤

芥川龍之介『手巾(はんけち)』より

  • 1916(大正5)年の作品 青空文庫より
  • 先生の信ずる所によると、日本の文明は、最近五十年間に、物質的方面では、可成(かなり)顕著な進歩を示してゐる。が、精神的には、殆(ほとんど)、これと云ふ程の進歩も認める事が出来ない。否、寧、或意味では、堕落してゐる。では、現代に於ける思想家の急務として、この堕落を救済する途(みち)を講ずるのには、どうしたらいいのであらうか。先生は、これを日本固有の武士道による外はないと論断した。武士道なるものは、決して偏狭なる島国民の道徳を以て、目せらるべきものでない。却(かへつ)てその中には、欧米各国の基督教的精神と、一致すべきものさへある。この武士道によつて、現代日本の思潮に帰趣(きしゆ)を知らしめる事が出来るならば、それは、独り日本の精神的文明に貢献する所があるばかりではない。延(ひ)いては、欧米各国民と日本国民との相互の理解を容易にすると云ふ利益がある。或は国際間の平和も、これから促進されると云ふ事があるであらう。
    • 「最近五十年間」は、明治維新以降の50年間に相当すると思われる。
    • ここでいう「先生」とは、新渡戸稲造らしい。

2019.11.18記す

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