|||||「記憶」で、保育はできない。|||

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 学生(保育士養成校)は、まだ保育現場を経験していない。それぞれがいずれ対面するだろう子どもを想像している。「君たちは、(子ども時代の)記憶をなんとか思い起こそうとしているんじゃないか?」 その記憶は4歳までがせいぜいだろう。3歳の頃を覚えているかもしれない。記憶がどれほど確かかあやしいが、記憶で保育ができるとしても、かろうじて5歳ぐらいからだ。ましてや、0歳や1歳の保育はできない。「記憶」で、保育はできない。

❖ 中学3年生、9年前の記憶

 2017年3月10日、中学生7人が神戸の某保育園を訪ねてきていた。卒業式があったその帰りだという。ちょうど9年前に卒園している。仲がいいなあと思いながら、即興で質問してみた。「保育園時代の記憶をどれくらい覚えているか?」と。── 節分の鬼がこわかった、と口々に言う。
 「先生が鬼になっているとわかっていても、こわかったあ」と。節分の鬼は毎回おぼえている、という女生徒がいた──ということは、4歳児クラスの2月を想起できるということだ。他の6人は首をかしげているので、5歳児までの記憶ということになるだろうか。鬼は2月なので実際の年齢では、多くは、4歳児の場合は5歳、5歳児は6歳だろう。

❖ 幼少時、記憶の実際

大熊孝『技術にも自治がある』農文協 2004年 p21
//私は、1942年に台湾の台北市で生まれ、1946年に着の身着のままで引き揚げてきた。小さいながらリュックを背負い、暗い中を鉄道線路伝いにとぼとぼと歩いた記憶が蘇る。我が家は、祖父・祖母が日清戦争の直後に官吏として台湾に渡り、両親とも台湾で生まれ、台湾永住を決め込んでいた。それゆえ、わが一族の財産は日本にまったくなく、リュックに背負ったものだけが全財産であり、引き揚げ後しばらくは貧乏のどん底の生活を強いられた。//
※1942(1月生まれとすれば)-1946(仮に12月とすれば)、4歳だったであろう。悲惨さが痛ましい。

❖「記憶」を学ぶ

 日本認知心理学会は「現代の認知心理学」(全7巻)というシリーズを2010~11年に、認知科学の水準を著し教科書として発行している。その第2巻「記憶と日常」で、ようやく私は「記憶」について学ぶ機会を得た。
 「記憶の過程」は次の4つの段階で表される。

記銘 → 保持 → 想起(=記憶)→ 忘却

 日常会話で「記憶」というときは「想起」をさす。あかちゃんや幼いときの、(後年になって)その記憶がないということは、
〈記銘→保持〉されていない
〈記銘→保持〉されているが、想起できない か、を考えてみる。
 0歳児について「担当制が有効」という前提に立てば、現場感覚として「記銘」されていると考えるのが自然だろう(担当の先生をおぼえているという解釈)。したがって、①は否定される。研究者間では①②の結論は出ていないが、大勢は②であるらしい(後年に至っては想起できないであろう、つまり②だが、0歳当時では想起できていると思う)。

養老孟司『唯脳論』文庫版 p203
//脳が刻々大きく変化する子供の時代には、社会責任がない。本人にとって、名前もない。幼少期の多くのことが後で記憶がないのは、ひょっとすると、ただ脳の未成熟さのせいばかりではなく、後の脳の変化が大きいために保持できないのであろう。配線はまだ不十分だが、神経細胞は1歳ぐらいで数がもう揃っている。三つ子の魂百までというように、3歳以降の発達は程度の問題に過ぎないとも言える。//

❖ 記憶の必要で、脳は「リハーサル」をしている。

 「記銘」とは極めて短時間、数秒間の反応で、周囲の刺激を認識した”瞬間”のこと。その次の段階「保持」によって、脳に格納される。
 想起(記憶)される仕組みは研究が進みつつもわからないことは多い。わたしたちは忘れないようにするために、必要なときに思い出せるようにさまざまな工夫をする。その工夫を認知学的には「リハーサル」という。
 リハーサルにも種類はあるが、過去に学習した(保持されている)ことに関連づけていること(精緻化リハーサル)が多いようだ。0歳にとっては、あらゆる感覚刺激が「原体験※」であり関連づける対象がない。関連づけるものがなくても、身につく。「身につく」は「受け入れる」が適切かもしれない。
 0歳だけでなく、1歳、2歳までは似たようなものだと思う。したがって、0,1,2歳とそれ以降とでは、記憶の観点からも何かが違う、と私は思う。
※「原体験」=過去の経験がない初期の体験という意味

❖「リハーサル」の対象となるモノサシが必要

 では、リハーサルが有効に機能するようになるのはいつ頃からだろう。それが先にあげたこわかった鬼の思い出とつながる。
 獅子舞であかちゃんが泣く。秋田の郷土芸能なまはげであかちゃんが泣く。そのあかちゃんは母や祖母らに抱かれている。つまり、保護されている(愛を相互に確認できる=間主観性)関係で、泣く。想起されなくても、恐怖に対するモノサシが育つ。愛の交歓で有効なモノサシができる。そのモノサシがリハーサルの対象となり、4歳または5歳当時に「記銘→保持」され、9年後に想起される(上記、中学生の事例)。思い出としては、「こわかった」ことだが、じつは、「こわいを感じられる愛情」のもとに育ったという証でもある。このモノサシは、私が創案した《 3つの体験 》& ハートスケールと合致する。

 現時点で到達した私の理解は、おおむね5歳(の誕生日)までにリハーサルの対象となるモノサシを得る。モノサシは豊かであってほしい。

2023.4.30Rewrite
2019.6.12記す

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