||||| 二歳児の形容を「ブラブラ期」に:川田学 |||

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二歳半の画期(群れの始まり)

「再考・二歳児の形容詞」:川田学
+ 出典:「現代と保育」87号 ひとなる書房 2013年 p104-117

p106
//親たちは「会話」「適切な反応」「遊べる」など、二歳児の変化をポジティブに表現することもありますが、むしろ育児雑誌などで影響力を持っている二歳児の形容詞は「イヤイヤ期」ではないでしょうか。私は、「イヤイヤ期」という否定の形容では、二歳児の本質がかすんでしまうと考えています。もっと二歳児の視点に立った形容詞を探したいのです。//

p106
//一方、発達研究の世界では、二歳児は「闇の年齢」(dark age)と呼ばれることもあります。//
p107
//二歳児の発達を理解するための情報が絶対的に不足していることから、闇の年齢と呼ばれるのです。//

p109
//「ブラブラ」という形容が、一つのポイントかと思います。乳児(0~1歳児)は親に「くっついて」いる。4,5歳になると、「はたらく」ようになる。2,3歳は、「ブラブラ」している。//

p109 発達心理学者バーバラ・ロゴフ(アメリカ)の言
//「中産階級ヨーロッパ系アメリカ人のコミュニティでは、乳児期の終わりは『手に負えない二歳児』と表現され、反抗的な行動が急に現れると考えられています。…(中略)…これとは対照的に、多くのコミュニティでは、二歳頃そんなふうにいこじで拒絶的になるということは、観察されてもいなければ予測されてもいません。」//
p109
//「手に負えない二歳児」の原語は、terrible two です。育児雑誌では「魔の二歳児」などという言い方もありますので、これと並列して使われるイヤイヤ期という表現は、terrible two に由来するものでしょう。//

p109
//日本の子育ては、現実には過保護や過干渉といった先回り的・抑制的なかかわりが課題となっていますし、寛容というよりは放り出しに近い状況があることも無視できません。イヤイヤ期という語がこれほど定着しているのも、乳幼児を手に負えないもの、大変なものと見る価値観が一定の共感を得ているためではないかと思います。//

p109
//英語圏には、2,3歳ごろの幼児について toddler(トドラー)という呼び方もあります。「よちよち歩きの者」という意味です。//

p110
//たとえば、玩具の貸し借りのルールに従うことは、1歳児には困難なのですが、それは「本当はそうしないといけない」けれど、まだ未熟なため「できない」というふうに意味づけられます。つまり、小さい子どもはより大きい子どもに期待される「正しい姿」を基準に評価されることになります。現代の日本も、だいたい似た価値観で子どもを見ているのではないかと思います。//

「げ・ん・き」no.193 2022.9.25
特集「イヤイヤ期」の捉え直し 坂上裕子 青山学院大学教授 p2~16
p3
イヤイヤ期」表現に対して
//このような発達的特徴を踏まえると、「自己確認期」あるいは「自己アピール期」という名称が、この時期の子どもの実態には即しているのではないかと思います。//
p2
//「イヤイヤ期」という言葉は20年ほど前にはなかった言葉であり、当時は「反抗期」と呼ばれていました。その後、いつの頃からか、インターネットや育児雑誌上で「イヤイヤ期」という言葉が使われ始め、広がっていきました。//
p2
//「イヤイヤ期」「反抗期」のいずれも学術的な言葉ではなく、その定義も明確には定められていないため、漠然としたイメージで用いられているのが実情であるといえます。//

イヤイヤ期よりブラブラ期…学者提案に保育現場から反響
+ 朝日新聞デジタル 2018.5.21

p110
//他の多くのコミュニティでは、多世代の者同士が互いの責任の範囲で行動し、それが協調し合うことで全体としてのコミュニティの実践をつくり出していると言います。そういうコミュニティでは、1歳や2歳の子どもは、4,5歳と比較される人たちではなく、その時期に固有の役割が存在するとみなされているようです。//

p110
//同年齢間での競争を軸にしたコミュニティでは、年齢が下であることと、能力が劣っていることを等価とみなす傾向があります。そのため、その年齢にふさわしくないふるまいをした子どもを、「1年生のクラスに行きなさい!」とか「赤ちゃんだね」と評価するのです。こうした言い方は、よく考えると「1年生」や「赤ちゃん」にとても失礼なものです。//
p111
//ただし、能力による比較(能力主義)は、必ずしも悪いことばかりではありません。もともと近代以前の社会では、能力は重視されていなかったのです。身分や家柄とか、出生順とか、年齢とか、性別といった、本人には変えようのない属性で「できること」と「できないこと」が厳しくコントロールされていました。//
※ここでいう「能力」は「実力」に置き換え可能でないか。できる/できない、ではなく、身についた到達地点が実力という意味。

p112
//グアテマラの村の二歳児も、チベットの村の二歳児も、日本の都会の二歳児も同じ人類の二歳児です。基盤となる能力の「獲得」はそう違わないはずです。違うのは、その能力がどう「実現」しているかなのです。//

p113
//目的的でも、協同的でもなく、気の向くままにあちらこちらを転々とする自由を傍受できるのが、二歳児の発達の重要側面ではないか//

p113
//生後半年以前から、赤ちゃんには物事の因果関係を予測している様子が観察されますが、自律的な移動運動能力の発達にともなって、予測にもとづいて環境に働きかける行為が目立ってきます。//
p113
//また、1歳半ごろになると、おやつの前には手を洗うというような、見通しを持った生活行動も増えてきます。ですから二歳児たちの気の向くまま「ブラブラ」、というのは瞬間を生きているとも言えますが、そこには小さな見通しの連鎖があると思います。//

p113
//保育の中で、「遊びを転々とする」という表現が使われることがあります。この「転々」は、「遊びが続かない」「遊び込めない」という意味で、やや否定的なニュアンスを含んで使われる印象があります。どうも、おとなの世界の、「職を転々とする」というイメージを、子どもの遊びにも当てはめているきらいがあります。もちろん、中には楽しめていないときもあると思いますが、ブラブラや転々ができるということは、発達的な産物でもあることに目を向けたいと思います。//
※《ASOBIもどき+本来の遊び

p114
//じつは、よく子どもたちを見ていると、「ブラブラ」も無秩序ではないことが多いものです。いつも決まった場所を通って、一つひとつ確認をしていたりします。カブトムシは起きているか、赤ちゃんは泣いていないか、水道は出っぱなしじゃないか、大きな鏡で笑顔の練習、たくさんかかったタオルをなぜてみた感触の確認、窓から見える景色はどんなか。気づきや発見は、毎回目新しいことをする中からは得られにくいものです。かといって、完全に同じパターンの反復(電子玩具的なものが代表例)では、パターンの学習はできても、世界の豊かさに出会うことはないでしょう。だいたい同じなんだけど、少しずつ違っている、という環境をくり返しブラブラすることによって、子どもたちはさまざまな規則性や世界の豊かさを学ぶのだろうと思います。//
「体験」とは?
※タオルの例は、なかなかの観察だなあ

p114
//さて、いまひとつ二歳児を形容することばとして取り上げたいのが「並び立つ」ということです。//

p117
//いずれにも、矛盾からの解放の発露があり、子どもとおとなが並び立って、次の一歩を踏み出します。//
※ここは、ちょっとわかりにくいなあ

p117
//二歳半は、ある程度の意識的行為をもって、集団としての歴史をつくり出す存在者になり得ます。生活の中に、おとなと並び立つ瞬間が立ち現れるのは、前回から私が述べてきたこととの関係で言えば、そこに〈教育主体〉としての子どもがいるからです。人は、自ら意識的に他者を導く者であるとき、同時に、真の意味で〈被教育主体〉にもなり得ると考えます。他者を導くことと他者に導かれることが、ともに意識の下に置かれるとき、協同による自由の感覚が、それとして子どもに体験されるようになります。そこに、3歳以上に期待されている、幼児教育の芽を見ることができるように思うのです。//

※ここに、わたしは、群れの始まりを感じる。「二歳半」は乳児とわかれ、間主観性で説明される期間から離脱し、「ともだち」と呼べる関係を結ぶようになる。乳児と幼児の画期は、《群れの始まり》に遭遇することではないかと思う。

(参考)久保田正人『二歳半という年齢』読書メモ

「2歳半を画期とする」ことの考察

 2歳半を境に、0歳からを乳児期とし、一般に「幼児」と呼ばれる期間をわたしは「2歳半~小学2年生」にあてている。2歳半を境につまり画期とするには理由がいるだろう。わたしは実践的な経験だけでの判断なので、主観的であることの非はある。
 釈明をもう一つ。年齢を区切りにして「画期を主張する」ことに自ら疑心はある。にもかかわらず年齢を区切って根拠にするかといえば、考えやすいということになる。

 だらしのない前置きをした上で、本のタイトルにまでしている『二歳半という年齢』にすがる思いで読んだ。

『二歳半という年齢』という本の場合

  • 久保田正人(くぼた・まさんど)『二歳半という年齢』
    • 新曜社 1993年
    • ISBN 978-4-7885-0452-3

p196
//きりのよい3歳でなくて2歳半としたことには次のような理由があった。
 まず筆者がいろいろの研究から学んだ3歳児の行動の多くが、長女らの2歳半少し前あたりから見られたという経験である。ことに自分や他人の行為の責任ということがわかっているような、問責の行動を見たのであった。その後2歳半に注意したのは、ビアンカ・ザゾの「2歳児の幼稚園教育は是か非か」という研究である。//

p197 ザゾは──
//1日のスケジュール(昼寝をはさんで5時近くまである)で生活する形をとるとすれば、年齢の限界は2歳はまだ無理で2歳半だと結論した。//(ザゾは続けて……)
//クラスの共通の目的を理解してそのために少しでも自分を押さえていられる状態になっているというのが理由である。子どもの実際の行動をつぶさに見た上での2歳半の肖像は筆者の観察に対応するものだった。//

p198 仙台市キリスト教育児院の故大坂誠先生の言葉を選び……
//「でも、問題は2歳半からなんだ」//
これを受けて
//現保母長の竹田先生も、たしかに2歳半の時期に急に社会性がのびて子ども同士の世界ができ始める、同時に親との関係も新たな質と課題を要求されるという意味のことを語られた。//


p64
//初めての人に無条件で接近するだけでも、避けるだけでも社会関係は成り立たず、相反する二つの態度を個々の場合に適切に統合してつきあい関係に入るのが、2歳半ならばまったく日常的に見られる。//

p194
//他の人々といっしょにいる自分自身の記憶を遡れる限界が2歳半頃ではなかろうか、とその種の古い記録〔出典あり〕などから、と思っている(筆者自身は3歳からだが)。//

2023.9.3記す

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