||||| 養老孟司『唯脳論』読書メモ |||

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養老孟司(ようろう・たけし)
『唯脳論』ゆいのうろん
+ ちくま学芸文庫 1998年
+ 2000年に記した『唯脳論』を紹介文

p7
//われわれの遠い祖先は、自然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住んでいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。//

p8
//脳は現代のイデオロギーであり、現代の現実である。//

p11
//天文学者が宇宙の彼方を観測しているときに、宇宙のそこで生じている出来事に、脳は何ら関係していない。しかし、その出来事を天文学者が観測しなければ、つまりそこで天文学者の脳が関与しなければ、そんな出来事はヒトにとって、存在しないも同然と言ってよいであろう。宇宙論では、ある物理定数を測定と計算の結果確定すると、そうして定数を決定した宇宙と、決定する以前の宇宙とは、異なったものになるという考えすらある。むろん、定数を決定するのはヒトの脳である。//

p12
//ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。//

p18
//医者は大体、理科と文科の間に挟まって往生するものである。両者をどう結合したらいいか。そこで脳にたどりつく、というのが、この本を書いた私の動機である。//

p21
//この本で私が述べようとするのは、文科系における言語万能および理科系における物的証拠万能に頼るだけでなく、すべてを脳全体の機能へあらためて戻そうとする試みである。だから「唯脳論」なのである。//

「構造」と「機能」

p28
//心臓は「物」だが、循環は「機能」//
//心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指している//
※脳は「物=構造」であり、心は「機能」である。
p31
//腎臓が尿を作る//
※腎臓という「構造」が、「機能」として尿を生産する。
※血液は循環する。心臓という「構造」は、(血液の)循環という機能を生む。
p31
//オシッコなら、検査のために採ることができる//
//血液なら、検査のために採取できる//
※オシッコも血液も、構造から生じた機能である。機能の実体を一滴採取することは可能である。しかし……。
p31
//検査のために、心を一かけら採ってくれ。そんなことを誰が言うか。//
※脳(構造)から生じた心(機能)に限っては、採取不可能である。血液は採取できるが、「循環」という機能のありかたを……
//検査のために、「循環を一かけら」採ることは// できない。
※循環や心は、一かけらも、採り出せない。
※心が不思議で、実体不明な意味はここにある。
p30
//構造と機能の別を立てるのは、ヒトの脳の特徴の一つである。//
※構造と機能は、腎臓(尿)や心臓(血液)は一体として認識できるが、脳(心)では、これをあてはめられない。〈別を立てる〉の意味。
p32
//脳と心の関係とは、心臓と循環、腎臓と排泄、肺と呼吸の関係と、つまりは似たようなものである。いわゆる心身問題は、それを素直に認めないところから生じる。//

p139
//なぜ構造という物質から、機能という「物質でないもの」が生じるのか。//

p140
//機能に関する議論は、外的必然性に集中しがちな傾向がある。それには、進化論、とくにネオ・ダーウィニズムの影響が大きい。脳が行動上の役に立つことは誰でも知っている。しかし、解剖学の観点から見れば、生体内における「内的必然性」もまた、きわめて重要である。//


p31
//「口」や「肛門」は、その典型である。//
//肛門に重量はない。なぜなら、肛門に「実体」はないからである。これはいわば、消化管の「出口」である。//


p76
//教えなければならないということは、計算のような能力には、後天的な部分がかなり含まれている、ということである。言語の研究家は、言語の基礎には、ある構造があるという言い方をする。その構造は、私はじつは脳の中にあると思っている。構造主義における構造とは、しばしば脳の構造に他ならない。もっとも私は、その構造の存在を「前提」にしているわけではない。「教え込まれる」ことと、「基礎構造の成立」とは、同時に起こる過程かもしれないからである。ウィトゲンシュタインに言われるまでもない。//

p77 動物の計算脳力について
//個体識別の脳力と、それに関する記憶力があればよろしい。ほとんどの哺乳類は、これで間に合わせていると思う。//

p78
//計算脳力は、その過程の厳密さゆえに、「動物的機能」と似たようなものと誤解される可能性はあるが、状況の一義性がこちらにはない。それに、計算が終始まちがうものであることは、御存知のとおりである。//

p80
//こういう〔計算〕脳力を最初から脳に持たせるには、大きな脳を前提にしなくてはならない。しかし、進化の過程でそれができるはずがない。脳は、必要最小限の神経回路から始まったはずだからである。
 ただし、そういう余力の脳力の発生が、進化の過程で一回だけ、かなりの規模で起こったらしい。それはヒトの脳が生じたときである。つまり、われわれの脳は、九九の脳力に象徴されるような、状況依存性を欠く無益な脳力を、多数ためこむことになったのである。//

p82
//人工知能が人間を置き換えるというのは、単なる誤解に過ぎない。第一、機械というのは、ヒトの脳ほどいい加減なものではない。//

p83
//現在の計算機とは、身体の中での腸のようなものである。腸管にも大量の神経回路があり、きわめて微妙な運動をしているに違いないのだが、それをわれわれはほとんど知らず、つまり意識せず、そのまま万事まかせっぱなしである。//

p83
//ヒトの脳の未来像を、私は二つに分けて考えている。//
p84 その一つ目
//脳の脳力の多くを計算機に代替させる方法は、まだまだ進歩するであろう。しかし、この方向を規定するのは、明らかに実用性につきる。脳の計算機は有効であろうが、すでに述べたように、計算機がヒトの脳の真似をしてもはじまらない。//
p84
//第二の方向は、ヒトの脳そのものを変更することである。三百万年の進化過程で、ヒトの脳は、約三倍の大きさになった。これをさらに進める方向である。//……//「大きな脳」は、われわれを理解するはずである。計算機には、その可能性はまずない。あったとしても、これははるかにたいへんなはずである。//

p87
//動物でも、世界における自分の位置は知っている//
※「世界」地図
p88
//「世界」に関するわれわれの記憶はしばしば視覚に依存する。だから見たこともない光景の中では、どちらに進んだものか、途方に暮れる。//
p87
//位置にはもう一つあって、それはたとえば、背中がカユイ時にカユイところを掻くという、そのことである。//
※ホムンクルスの身体地図
p89
//脳のその部分に何事かが起こると、足が「痛む」。//
//視覚と触覚はともに空間における位置の情報に関わる。//

p90
//こうした位置情報の問題は、視覚系に限らない。まったく同じようなことが、皮膚感覚、つまり体性知覚で起こっている。背中でも腹でも、体のどこかを触られたら、どこを触られたかは、場所によって敏感かどうかの違いはあるが、すぐに判断できる。//
p91
//末梢器官の二次元配列は、大脳皮質でも、神経細胞集塊の二次元配列として認められる。//

p112~115
//知るとはどういうことか//
※これは複数ページの見出しである。このページ数4はスゴい! 養老孟司だけにしか書けない一節だろう。わかりにくそうで、なんとなくわかる。〈意識とは何か〉という命題と同等の中身だ。この節を要約できるだろうか?

動物愛護と実験動物

p121
//動物の意識に関連して、ヒトと動物を峻別する人達に生じるのは、他方では、極めて極端な動物愛護である。どこかに動物に対する罪の意識があるのではないかと思いたくなる。
 動物実験で麻酔を使ってなければ、多くの外国の雑誌では、論文を受けつけてもらえない。サカナですら、例外ではない。その点では、タイの活きづくり、白魚のおどり食いなどというものは、もはや犯罪の領域に達しているのではないか。もっとも、そういう動物愛護の心に富んだ人達が、殺虫剤を撒いていないという保証もない。たぶん虫は別だと言うのであろう。そういえば、戦争中には、幼い子供だった私の頭の上にも焼夷弾が降った。//
p122
//動物愛護のために、実験がとまってしまうことも、西洋では稀なことではない。私のスイスの友人は、そのために一年間を棒に振った。本人は、なぜ自分の研究室だけが問題になったか、よくわからなかったらしい。政治的な背景があったようでもある。日本であれば、不徳のいたすところ、と本人が結論するところであろう。こうしたきわめて情緒的な運動は、それ自身より、それがこうした何かに利用されるのが困る。//……//クジラの愛護もまた、その好例である。//
p122
//動物を愛護して別に悪いことはないのだが、それも「程度問題」である。それはちょうど、動物の意識と人間の意識の程度のようなものである。はっきりと線を引けと言われても、いまのところは引きようがない。それなら無理に引くことはないのである。人間なら、多少ともうしろめたい気持で生きるのが、健康というものである。//
p122
//実験動物の取り扱われ方と、自分の姿とが重なってしまうから、実験の方を何とかしろ、というのであれば、これは深刻な問題である。『悪魔の飽食』を持ち出すまでもない。しかし、どうもそうとは思えない。ユダヤ人や中国人がとくに運動しているわけではないからである。動物でそういうことが許されていると、自分達なら人間相手に、うっかりそういうことをしてしまいそうだから、あらかじめ禁止しておいてくれ。そういう話なら、わからないでもない。しかし、それならそれで、おそろしい話である。//

ものさし「等身大」(養老孟司)

p188
//三木成夫は、話の上手な方であった。//

p197
//生物学的な時間が、物理的な時間と違って、きわめて多様であることは、誰でも知っている。夢中になっている時間は短く、「主観的」にはほとんどないと言ってもいい。「夢中」とはうまい表現であり、夢の中での時間は、前後関係すらよくわからない。//……//われわれが時計を使うのは、生物時間の多様性の現れである。視覚と物差のところで述べたように、われわれは長さの絶対尺度を持たないから、物差を持つ。//

p198
//前頭葉には計時細胞と呼ばれるものが存在するらしい。一定の時間間隔で放電するからである。こうした「短い繰り返し」は、時というより「単位の繰り返し」、すなわちリズムとして感じられる。運動系ではリズムが大切である。多くの運動は、一定のリズムを持っている。基本リズムの存在は、リズム自体よりも、それが一種の時計、あるいはむしろメトロノームや指揮棒として働くことに意味がある。運動の統制がとりやすいからである。//
p199
//会話では、われわれは意識せずしてリズムを合わせる。リズムが会わないと「疲れ」「シラける」。聞き手は聞くだけではない。適当に相槌を打つ。この周期をランダムにずらせば、話は進展しないであろう。//
p199
//〔時間について〕長い時は、記憶に関係している。//

p220
//野口体操ではなぜ力を抜くか。//

2023.4.3記す

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