|||||「遊びの発生」と「笑いの起原」|||

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デズモンド・モリス『裸のサル』角川文庫 p137
//泣くことは誕生時から存在するが、笑いは3か月または4か月まで現われない//

p137
//笑いが現われる時期は、親を認識する能力の発生と一致している。自分の父親を認識できる赤んぼうはかしこい子といえるだろうが、笑う子はすべて自分の母親を認識している。赤んぼうは自分の母親の顔を識別し、他の成人から区別することを学習するまでは、のどを鳴らしたりすることはあっても、笑うことはない。赤んぼうは自分の母親を識別するようになると同時に、他の見知らぬ成人に対して恐れを抱くようになる。2か月まではどんな人でもかまわない。親切な大人はみな歓迎される。しかし、今や赤んぼうは周囲の世界に恐怖を感じはじめ、見知らぬ人はかれを動転させ、泣かせてしまうことが多くなる(もうすこしたつと、他の一部の大人も報酬を与えてくれるものだということを学習し、かれらに対する恐れはなくなる。しかし、これはもはや個人識別にもとづいて、選択的におこなわれるものである)。母親に刷りこみされた結果として、赤んぼうは自分が奇妙な矛盾の中におかれていることを感じる。//
p138
//母親が何か赤んぼうを驚かすようなことをするとき、かの女は赤んぼうに正反対の2つの信号を発したことになる。「私はおまえのお母さんですよ──おまえの個人的な保護者です。だから何も恐れることはありません」そしてもう一つの信号はこうである。「見なさい。私はこわいんですよ」このような矛盾は母親が個人として識別されるようになるまではおこり得なかった。というのは、たとえ母親が赤んぼうを驚かしたとしても、かの女は単にその瞬間における恐ろしい刺激の源であるだけで、それ以上のものではないからである。しかし、今や母親は二重の信号を発することができる。「あぶないよ。だけどあぶなくないよ」べつのいい方をすればこうなる。「あぶないことがおこるかもしれないよ。でも、それは私から発せられるのだから、それを本気にすることはないんだよ」その結果として、赤んぼうはある種の反応、すなわち半分は泣く反応、半分は母親を認識したことによるのどを鳴らす反応、が混合したものを発する。この不思議な組み合せが笑いを生じるのである(あるいは、むしろ、進化の上でそうだったというべきだろう。それが固定化されて、独立した、他と異なる反応として発達してきたものかもしれない)。//

遊びの発生

p139
//したがって笑いはこういっている──「私には危険が真のものではないことがわかってるんだ」。そして笑いはこのメッセージを母親が伝える。「そして今や母親は、子どもを泣かせることなしに、子どもと活発な遊びをすることができる。//

p139
//赤んぼうの最初の笑いのたねは、母親による「いない、いない、ばあ」「お手々パチパチ」「立っち、おすわり」「高い高い」などである。すこしたつとくすぐりが主要な位置を占めるようになるが、これは6か月以後でないと現われない。これらはすべてショックを与える刺激であるが、「安全な」保護者によって加えられる。子どもはすぐにそのような刺激をひきだす方法を学習する──たとえば、かくれんぼでは子どもは発見の”ショック”を経験し、追いかけっこでは捕えることのショックがある。//

p139
//このようにして、笑いは遊びの信号、すなわち子どもと親との間のますますドラマチックな相互作用を持続、発展させる信号となる

p139
//それがこわすぎたり、苦痛にすぎたりした場合には、もちろん反応は泣くほうへと切り換えられ、直ちに保護反応を刺激する。このシステムは、子どもが自分の体の能力と、自分をとりまく世界の物理的な性質とを探索する機会を広げてゆく。//

泣くほほえむ → 笑う ↑ 遊ぶ(言語の表出

2023.7.9記す

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