デズモンド・モリス『裸のサル』角川文庫 p143
//今まで私はほほえみの問題にふれないできた。というのはほほえみは笑いよりさらに特殊化した反応だからである。笑いが泣くことの二次的な形態であるのと同様に、ほほえみは笑いの二次的な形態なのである。//
※泣く → ほほえむ → 笑う | 遊ぶ(言語の表出)
p146
//ほほえみは誕生後2、3週間のうちに現われるが、はじめは何か特定のものに対して向けられるわけではない。けれど、約5週間になると、ある刺激に対する明確な反応として発せられるようになる。この時期には、赤んぼうの眼は対象に視線を固定しうるようになる。はじめ赤んぼうの眼は、それを見つめる一対の眼に対してもっとも敏感に反応する。カードに画いた二つの黒斑でさえ、この効果をもつ。何週間かたつうちに、口も必要になってくる。この段階では、二つの黒斑の下に一本の口を示す線をひいたもののほうが、この反応をずっとよくひきおこすようになる。やがて口を開くことが重要となり、眼は、鍵刺激としての意味を失う。//
p146
//3、4か月というこの段階で、反応はさらに特異的なものとなりはじめる。成人の顔ならどれどもよかったが、特定の母親の顔へとしぼられる。母親に対する刷りこみが進行するのである。//
p146
//7か月になると、赤んぼうは完全に母親に刷りこみされている。母親は、今やどうなろうとも、赤んぼうの残りの人生の中に母親のイメージを残すであろう。//
p148
//ほほえみは相互的な信号である。赤んぼうが母親にほほえみかければ、母親は同じような信号で反応する。こうして互いに報酬を与えあい、両者の結びつきは相互の方向に強められる。//
p148
//いらいらしているとき、心配事があるとき、あるいは赤んぼうのきげんをそこねたときに、無理にほほえむことによってそのような気分をかくそうとする。かの女たちはこのみせかけのほほえみによって、赤んぼうの気分を乱すことを避けようとするのだが、じっさいはこのトリックがむしろ有害な結果をもたらすことがある。すでに述べたように、母親の気分に関して赤んぼうをごまかすことはほとんど不可能である。ごく幼い人間は、母親の動揺や落ち着きという微妙な信号に対して、するどく反応するもののようである。//
p148
//記号による文化的コミュニケーションという巨大な機構にわれわれがはまりこんでしまう前の、前言語的段階においては、われわれの赤んぼうは、われわれがのちに必要とするよりもはるかに多く、微妙な動き、姿勢の変化、声の調子などにたよっている。//
(参考)
ローレンツ『ソロモンの指環』
「遊びの発生」と「笑いの起原」
2023.7.10記す