|||||「伝承あそび」は、伝承されているか |||

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原田碩三『「群れ遊び」のすすめ』黎明書房 1990年
p112 問答形式の一コマ
//「昨年の研究会で、伝承遊びが姿を消したってボヤイていたけど、どういうこと?」
「昔から伝わっている三々五々の群れ遊びが見られなくなって、一人か二人の、室内の静的な、気晴らしとか、休息といった意味しかもたない遊び、つまり、遊びがおとな型になっているんだ。」//
※原田碩三……本書執筆時、兵庫教育大学大学院幼児健康学研究室教授


あやとりを例にしよう。あやとりは意外なことに、日本だけでなく世界で親しまれている遊びだ。写真をみていただければわかるように、アフリカの子どもたちがあやとりをしている。子どもたちの手にかけられている糸は、どの指にかかっているだろうか?(写真→)あやとり
 人さし指にかけられている写真は多い。だが、イラストで示されているのは、中指だ。おとなに導かれて糸をあやつっている”現代”の子の指は、人さし指だ。これが伝承というものだろう。
 しかし今、あやとりをおとなにしてもらうと、ほぼすべての人が中指でとる。人さし指の事例も見られるが例外だ。つまり、あやとりは伝承されていないことになる

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 「昔あそび」とも言ったりする「伝承あそび」は、果たして〈伝承され〉いまも続いているのだろうか。
 「あそび」の名称、遊ぶ手順(始め方、終わり方、ルールなど)、つかわれる遊び言葉(うた)、さらには、足や手指のつかいかた、つかう道具(素材)、なおかつ、どこで遊ぶ(広場、道、草むら)等々、それらを含めて「伝承(昔)あそび」だ。

 生活環境は昔と今では変わった。田園から都市に、土道からクルマ社会の道路に、遊ぶ服装も履き物も変わった。公衆衛生の考え方も変わった。
 伝承とは、何を伝えていたら「伝承」で、何が欠けていたらもはやかつての伝承と言えない、のだろうか。


「泥だんご」作りと、原発事故

加古里子/著 2006-08年 小峰書店

守屋光雄 & かこさとし ── 遊びの理論
戯曲「夕鶴」:木下順二 わらべ唄と子どもの遊び
かんけり遊びには、子どもの知恵が詰まっている
「みち 道」は、だれのものか?

「伝承あそび」は残念ながら変質してしまった。
伝承されていない。なぜか?

 「昔遊び」の「昔むかし」とは、いつの頃をさすのだろう。小学校では教育として「昔遊び」の字句を使って、実践的な技能修得の単元を設定しているところがある。「昔遊び」を指導するのは、勤めをリタイアした60を過ぎた人が多いようだ。地域に開かれた公教育ということになっている。
 60歳指導者の子ども時代がおよそ50年前とすれば、2021年-50年=1971年ということになる。昔遊びは「伝承遊び」とも言われる。伝承というからには〈途切れることなく〉伝えられてきた〈昔〉の遊びということになるのだろうか。

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 じつは、はさみを扱うときの人さし指の役割も変わってしまっている。(参考)はさみの指穴には、どの指を入れるのか?

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 百均でビー玉(ラムネ玉)やおはじきが売られているが、それらは手芸等の目的で、子どもが遊んでいる風景を見たことがない。おはじきは親指を主にして、はじいた。「親指」と知らされて驚く”おとな”は多い。(参考)おはじき

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かんけりで遊んだ、としよう。アルミ缶を蹴ると一撃でへこむ。ましてや、缶を踏むとペチャンコになりつかいものにならない。これは缶を選択することでなんとかなる。
 遊び方は地方によって変わるから一概に言えないが、かんけりは何をもってゲームが終了するのだろう。私が子どもの頃は、「♪オニ ハラ キッタ」と鬼が宣言することで終わった。この声が聞こえると隠れていた子らは10を数え上げられる間に飛び出して缶を踏まねばならない。踏めなかった子らは、じゃんけんをして次の鬼を決めた。ということは、遠くに隠れていることはリスクになる。捕まえられている友達を助けるには、鬼に見つけられないよう飛び出し缶を蹴ればよい。缶の近くに隠れていることが遊びをおもしろくするコツになる。ほかにも遊びのワザはあるが伝承されていない。

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大波小波くるりとまわってじゃんけんぽい」
 60年経ても私が思い出せる遊び唄。
勝って嬉しい花いちもんめ」の唄は今に続いている。何に勝ったのだろう。「負けて悔しい花いちもんめ」は何に負けたのだろう。
 私が覚えている限りは、6年生くらいの女の子がふたり、向き合って手をつなぎ「山」をつくった。山の間(下)をたくさんの子どもがくぐった。お姉ちゃんは「梅と桜とあわせてみれば……」と唄っていた。そして、唄が終わる頃「……しゃんしゃん しゃんしゃん……」と何度も唱えながらタイミングをみて、ひとりの子がつかまえられる。脇に連れて行かれこっそり耳打ちする。つかまえられた子が「梅」か「桜」を告げる。二人いるお姉ちゃんのどちらかが梅で一方が桜だが、それは内緒にされている。こうして、唄が繰り返され、すべての子の組み分けが決まる。突然、お姉ちゃんの一人が手を挙げて「梅集まって」「桜!」 密かに好きなお姉ちゃんの組に入りたいと思ったものだ。そして、始まった。「勝って嬉しい花いちもんめ
 大きいお姉ちゃんが年少や幼い子の面倒を見ながら遊んでいた。私は、遊んでもらっていた。

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昔遊びの何を今日に伝えなければならないのだろうか?
 その意味や意義、価値は多岐にわたり、複雑にからみあい、それぞれの地域に文化があっただろうから一概に言い切ってしまうことはできないし、良くないだろう。
 子どもに身を置けば、むずかしい理屈は必要なく、遊びを継承していく条件をととのえておけば、古来のままでなくても、新しい創造を期待できるかもしれない。
 失ってしまったものは大きいと言わざるを得ない。

伝承

加古里子『伝承遊び考1 絵かき遊び考』小峰書店 2006年
p28
//一口に「伝承」といっても、それは難しい問題をはらんでいる。//

加古里子が言うからには、重い言葉だ。

加古里子が『絵かき遊び考』で採取した数 p26
1)約2200……絵かき遊びをしている子を見つけ、その子から直接聞き取りをして採取
2)約1700……知人や友人に私信を送り、趣意を述べ、知っているものを記載してもらい、郵送により入手
3)約53000……私の講演会、講習会、ワークショップなど大小の集会の折、参加者にアンケートを配り、当の感想とともに記入したものを回収
4)約42000……新聞・雑誌等への寄稿、テレビ等への出演の折、末尾で収集を訴え、有志の来信により収集
p29 合計)//以上の結果、総数10万1000余のナマ資料をチェックし、歌詞と画図ならびに採取地名(予想も含む)を記録し、本書の資料とした。この間、よい内容でも単独孤立していたり、伝承が疑わしい場合は保留の予備資料とし、本書には採用しなかった。//
p26
//これらの方法の中で、私は遊びの中における実態、実状を知ろうとしていたので、①に最も力を注いだが、1970年頃より交通事情や誘かい事件等のゆえか急速に機会は失われ、資料入手が困難となった。//

 このおびただしい数値に驚く。個々の資料は、画図+歌詞の組み合わせであり、蒐集と整理・分類は、半端な作業ではない。

8点、サンプル抽出してみた

加古里子『石けり遊び考』p354
//石けりが、1970年以後次第に衰微していったのは、//
p40
//石けりは、単純な原則と遊び方によって成立し、日本では約百数十年の間に全国に流布伝承されてきた遊びである。//

「泥だんご」作りと、原発事故

「発達 145」誌 ミネルヴァ書房 2016.1
p70-74 特集《子どものトラウマのケアとレジリエンス》記事の一つ 
記事タイトル //放射能災害下における子どもの変化と保育者の支援 //
関口はつ江(東京福祉大学教授) 田中三保子(道灌山学園保育福祉専門学校非常勤講師)
原本pdf(該当部分)

p74
//五歳児には前のように外遊びに興味が向かない様子が見てとれます。遊びが伝承されなかったので遊び方が分からない子や、できるかどうか気にして、できないと諦める子もいるようです。//
(田中三保子、以下P73-74も)

p73
//災害直後の2011年度当初から、子どもたちは戸外に出られなくなりました。//
p73
//2012年度には30分程度の外遊びが解禁されましたが、保育はまだ屋内活動が中心でした。//
p74
//2013年度には1時間ほど外に出られるようになりました。//
p74
//2014年度には外遊び制限が解除され、外見上は以前と同じような保育ができるようになりました。しかし、この年の園児は災害時0・1・2歳であり、生まれた直後や短期間後から災害影響下にありました。//

p70
//これは災害という特殊な場合にとどまらず、時代の進行とともに起こっている子どもの生活が分断化されていることの問題として受け止めたいと思います。//

p70♠
//2011年3月11日、東日本大震災、それに伴う原発事故により翌日より休園。4月からは放射能の影響により戸外には出られない。1年3ヵ月後(2012年7月)、保護者の同意を得て戸外での遊びを30分間のみ実施しました。2014年4月からは1時間程度戸外で遊べるようになる。ただし、砂や動植物には極力触らないことが条件。2015年5月からは、数回の表土除去などにより、空間放射線量も0.1~0.2μSv/h程度に改善してきたので砂場の砂を入れ替えて砂遊びを再開。プールなどの水遊びも7月からを予定していたが天候不順により実際は9月開始となりました。//

p72♠「泥だんご」の復活
//A子の5月からの泥だんご作りは保育者の予想を超えて「ピカピカの泥だんご」を完成させました。「泥だんご」作りという、従来、園内で年長者から年少者へと受け継がれてきたものを、砂遊びをしていない3年間のブランクを経て復活するのには、相当に保育者の力が必要と考えていました。ところが、A子は保育者の指導はあったにせよ、「光る泥だんご」にたどり着き、子どものもっている計り知れない能力に改めて驚かされました。しかし、「震災前の泥だんご作りと何かが違う」との思いが拭えない部分もありました。そこで2年前の活動記録と比較してみたいと思います(表2)。
(♠川上むつみ・根本頼子 郡山市大槻中央幼稚園)

p72(表22年前の「泥だんご」作りの記録
//【年少児の姿】5月頃:大きさにこだわり、「一番大きいやつ作って」と保育者に要求する。作ってもらうだけで満足する。6月頃:自分の手に収まる大きさの泥だんごが扱いやすいことに気づく。7月頃~9月:年長児から白砂をかけると固くなることを教えてもらう。根気強くだんご作りに取り組むことで表面に変化が見られることに気づく。
【年中児の姿】4月:自分で作れるようになった自信と作ったものを誰かに見せたいと思う気持ちが出てきた。5月~7月:友だちといかに大きく作るか、競い合うことから、光らせることに目標が移った。夏休み明け~:泥だんご作りが、翌日まで引き続き行うようになり活動が継続していくようになった。
【年長児の姿】6月:昨年の経験から固いだんごが作れるようになる。ザルに白砂を入れ、細かくさらさらの砂を作り、光る泥だんごを目指す。「こんな風に作りたい」と自分のイメージをもち、数日間かけて取り組む。泥だんごが光るように工夫をして布で磨いたり乾かないようにラップをしたりして、試行錯誤しながら自分で経験していった。//

ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波書店 1976年
p98
//このほかにもまだ、モモにもよくわからないことがありました。ごくさいきん始まったばかりのことなのですが、子どもたちが、そんなものを使ってもほんとうの遊びはできないような、いろいろなおもちゃを持ってくることが多くなったのです。たとえば、リモコンで走らせることのできる戦車──でも、それ以上のことにはまるで役に立ちません。あるいは、細長い棒の先でぐるぐる円をかいて飛ぶ宇宙ロケット──これも、そのほかのことには使えません。あるいは、目から火花をちらして歩いたり頭をまわしたりする小さなロボット──これも、それだけのことです。
 もちろんこういうおもちゃは高価ですから、モモのこれまでの友だちはひとつも持っていませんでした──モモが持っていないことは言うまでもありません。とりわけこまることは、こういうものはこまかなところまでいたれりつくせりに完成されているため、子どもがじぶんで空想を働かせる余地がまったくないことです。ですから子どもたちはなん時間もじっとすわったきり、ガタガタ、ギーギー、ブンブンとせわしなく動きまわるおもちゃのとりこになって、それでいてほんとうはたいくつして、ながめてばかりいます──けれど頭のほうかからっぽで、ちっとも働いていないのです。ですからけっきょく子どもたちは、むかしながらの遊びにまたまいもどることになります。これなら、二つか三つの木箱とか、やぶれたテーブルかけとか、モグラが盛りあげた土の山とか、ひとすくいの小石とかがあれば充分で、あとはなんなりと空想の力でおぎなうことができるのです。//

2023.8.22Rewrite
2021.6.15記す

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