||||| 木下順二「夕鶴」再読 |||

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かごめ かごめ
かごのなかの とりは
いついつ でやる
よあけの ばんに
つるつる つうべった
うしろの正面だあれ

 輪になり、手をつないだ子が歌う。輪の中央には手で顔をおおったオニがしゃがんでいる。「うしろの正面だあれ」と声をかけられて、オニは○○ちゃんと当ててみる。当たればオニを交代する。
 ハンカチ落としは、オニが輪の周囲をまわってハンカチを落とす。逆だけど、似ているなあと思う。

 木下順二「夕鶴」をひさしぶり(50年ぶり?)に読んだ。登場する子どもたちの「遊び」の内容を確かめたかったからだ。
1) ねんがら
2) かごめかごめ
3) 鹿、鹿、角何本
「ねんがら」は尖(とが)らせた竹などを土に射す陣取り。わたしは「釘さし」と呼び慣わしていて五寸釘でよく遊んだ(が、遊び方は忘れているように思う)
 釘さしには唄はなかったが、かごめや鹿は唄が遊びを導いた。
 「♪アルプス一万尺」や「♪にらめっこしましょ」を、先日は5歳児が遊んでいた。子どもの遊びには、わらべ唄(遊び唄)がついてまわっている。

 童謡”専門”の歌手がドレスを着て歌う。歌手童謡は、子どもが遊びに伴う日本語の抑揚や発音、言葉の間(ま、リズム)に必ずしも対応していない。かっこよく? 舞台で歌い上げる。「あきのゆうひに てるやまもみじ こいも……」は童謡や唱歌のジャンルにふりわけられるが、子どもの遊びが消えていった要因のひとつはこれだ! と最近知る機会を得て驚いた。※小島美子

 木下順二は子どもの声の抑揚を巧みに書き込んでいる、ということを今更ながら気づく。戯曲「夕鶴」のエピローグは、
//微かに流れて来るわらべ唄──//(このト書きで結ばれる)
 人間の姿に戻れなくなったつうのことを知らず、子どもたちは「遊ぼう」とつうを誘う。つうは声かけに応じない。そして、飛び去る鶴を、「つう」とは気づかず子どもたちは見送る。
//子供たち 鶴だ、鶴だ、鶴が飛んでる。(繰り返しつつ、鶴を追って駈けて去る)//

 子どもは遊ぶことで育つ。戯曲を読んで改めて思った。木下順二もそう考えたのだろう。

//つう おかね……おかね……どうしてそんなにほしいのかしら……//

 「おかね」がひとの暮らしを江戸期すでに支配し、結果、今日にあって、子どもの遊びを喪失させた。木下順二は予言していたのであろうか。もっとも、「夕鶴」の原型は1943年で1950年頃までの完成だから、戦後の貨幣経済や高度経済成長の影響下ではない。江戸時代の百両、千両が単位でもある。このことを念頭に置き直しても、「おかね」が伴う暮らしと子どもの遊びは、つまり、おとなの暮らしと子どもの遊びは関係しあうと言ってよいのだろう。


戯曲「夕鶴」の詳細:木下順二 わらべ唄と子どもの遊び 

2023.11.1記す

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