||||| 子供、子ども、子どもたち、等々の表記 |||

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 保育などkodomoと関わる仕事に長年携わってきた人たちでも「kodomo(子供等)ってどう書いたらいいの?」と疑問に思い、的確に応えられないことは多い。「kodomoはお供ではありません」と「供」の使用を好ましいとしない主張を耳にしたこともある。そのためだろうか、保育の世界では「子供」の表記は少ない。

 大野晋編(2011年)『古典基礎語辞典』に「こども/子供」の見出しがあり解説は「コ(子)に、複数を表す接尾語ドモ(供)が付いた語。」とある。(赤色表記は筆者)

 同辞典の見出し「こ/子」は示唆に富む。
//小さい意を表す接頭語コ(小)と同根。古くは親から見た、息子や娘の意。コ(子)が大人に対する小児の意を示すようになったのは新しく、例も少ない。大人から見た小児はワラハ(童)・チゴ(児)という。//
※引用終わり。さらに見出し「こ/小」を探求するのが好ましいが、ここでは省略する。 (青色、太字表記は筆者)

新明解国語辞典(第三版)「こども」によれば、
//もと、多くの子の意//とある。

 では、「ドモ」を調べてみよう。「トモ」ではなく「ドモ」と濁音になっていることに注意して同辞典で調べると、「ども/共」が見つかった。
//トモ(供・友)から転じた語。いつも付き従い行動するもの、並んで行動する仲間の意から、同類のものが複数あることを示す。//
※語釈の筆頭に「人の複数を表す」とある。
「……ども」

 国語国字問題をここでするつもりはなく、実用的な表記はどうあればよいかという道筋をここで検討したい。

 仮名で書くか漢字で書くかの選択より以前に、「(音として)ども」は複数をあらわす。漢字表記以前にkodomoは複数であり、しかも、「いつも付き従い行動するもの」ということである。語kodomoの成り立ちからして、常に複数としてとらえられ、固有の人格として認識されてこなかった、ということだろうか。

kodomo一人一人を分けて人格として認め、個を尊重するという認識でkodomoに向き合うとき、kodomoをどう表記・表現すればよいのだろう。

 童や児で表現されていた過去は、もしかしてkodomo一人一人の人格が区別して認められ大切にされ(そうでないかもしれないが……)、対して、「コ+ドモ」と表記する場合は個々を区別しないということか。

 「子供・子ども」どちらも複数であり、どちらも「お供」である。お供でないkodomoを表記する方法は「子」と漢字1文字で書けばよい。複数表現のときは「子たち」「子ら」という表記法がある。
 「子どもたち」という表記は、「子ども」+「たち」と複数を重ねている。

 言葉にこだわりながらも、理解や認識が伴えば、表記は自由であって拘束されるものではないと私は考えている。
 だから、kodomoをどのように実際に(実用的に)表記するかは自由である。けれども、kodomoとのかかわりで専門性を問われる立場にあるとき、kodomoの表記・表現は、いつも悩み続ける課題であってほしい。

※付記 ===

 表記「子ども達」もよく見られる。常用漢字表の「付表」では「友達/ともだち」の表記が認められており、「達」は「友達」において「だち」の読みが与えられている。
 正確には「友達」には「ともだち」の読みが与えられていて、「とも・だち」と分けて認められているのではない。さらに、「達」は、常用漢字表で認められている読みは「たつ」のみ。したがって、「こどもたち」を「子ども達」と表記することは、内閣告示に照らせば誤りである。公用文でない限り、慣例としての使用が誤りというわけではない。

追録 ===

J.W.アスティントン
『子供はどのように心を発見するか』新曜社 1995年
+ 訳者/松村暢隆
+「訳者あとがき」で次のとおり記している。
//〈子供〉だけは訳者のわがままで〈子ども〉とは表記しませんでした。〈私ども〉や〈野郎ども〉とは区別すべきだとこだわるのです。//
「……ども」

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