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level of happiness やりたい、たべたい、たのしい

 学歴、身分、立場、あかちゃんからお年寄りまで、その区別なく、満足のゆく生きかたというものがあるのだろうか? 「豊かさ」とは何かを問うかたちで考えてもみた。むずかしい話に、はまってしまう。他人事(ひとごと)のようになってしまう。
 野外活動で5歳児と向き合うとき「やりたい」と思わせるようにもっていく。5歳児にもなると先入観をもっている。「にんげん」を5年もやってきているので、それなりに価値観が芽生えている。「やりたい」と思わせるには、自身の価値観にとらわれないように誘惑することが肝腎だ。価値観は固定観念ともいえるが、それをうちこわして”発見”を体験すると「やりたい」に辿りつく。
 あかちゃんは、寝返りをし、やがて這い這いをする。動く自由を得ると「やりたい」ことに向かって進む。
 若者に限らず、高齢になっても旅行が好きな人は、どこかへ行きたい。老眼になっても、本の好きな人は読書に時間を費やす。
 高校3年生のとき、卒業前、さいごの授業で先生(漢文/田中稔先生)が言った。「好きなことを仕事にしないほうがいい。好きなことは自分用にとっておこう」と。それは「やりたい」ことは常にキープしておこう、という呼びかけだったのかもしれない。

 しんしんと冷えているにもかかわらず、人気ラーメン店の前で列をなしている。お目当てのラーメンにありつけるには30分あるいはもっと時間がかかるのかもしれない。それでも「たべたい」。

 毎朝、6時45分頃になると、朝食用にわたしはサラダをつくる。豆腐をボールに手で押しつぶして敷く。キャベツを丁寧に千切りにする。トマト、リンゴをきざむ。ラッキョをきざむ、隠し味でなかなかいい役割をする。浸しておいたワカメ、黒ごま、最後にカイワレダイコン。けっこうボリュームがある。パーフェクトに自己満足だが、この「たべたい」で一日が始まる。
 お勤めでお昼のランチは「たべたい」というだけでなく、心安まるひとときだろう。野外活動を終え、足が園に向いている子らは「おなかすいたあ~」と言う。

 野外活動で焼きいもをすると「おいしい」。満たされて「たのしい」。ボランティア活動は「たのしい」とつづく。
 一日が終わって入浴、シャワーの時間。ホッとする時間。「たのしい」というほどではないが、ホッとする時間は大切。
 幼児は、一日を過不足なくエネルギーを消費するように終えたいと、わたしは思っている。幼児はいつまでもどこまでも遊ぼうとする。遊び過ぎると翌日に熱を出してしまうことがある。十分遊びきると、つまりエネルギーをつかいきると、「もう終わりにしよう」と声をかければ、あきらめて休むようになる。過不足なく過ごすことを身につけるのが幼児期の肝要だ。「たのしかったね!」

 「やりたい、たべたい、たのしい」を《 level of happiness:しあわせ三要素》と捉えてみた。

 否定的に考えてみよう。
 「やりたい」ことがない。やる気にならない、とは? 幼児期にそれがあれば、先に述べた価値観へのこだわりが強いか、もっと重大な心理的危機を問わねばならない事態か。ヴィゴツキーの学習理論〈発達の最近接領域〉によれば「やりたい」ことが自身を突き動かしてくるのは自然なことだから。その「やりたい」ことがどれだけの起爆剤となるかは体験の積み重ねでしかない。それは成人しても同様である。〈いつまでも”子ども”〉は真理で、「”子ども”の心」を外に出さないのが”おとな”という観念が勝っているにすぎない。
 「たべたい」という気持ち、衝動はだれにもある。空腹状態は血糖値の異常な低下かもしれない。生きるために食べるだけでなく、好き嫌い個人の嗜好を含めて「たべたい」欲求は生きてきた証だろう。だから、「たべたい」が満たされるとしあわせな気分になる。共通の欲求だから共に食事をするともだちと時間を過ごせば「しあわせ」を共有することになる。

 「たのしい」という価値を否定するとは、どういうことか。「たのしい」気分になれない。「しあわせ」を求めない。「しあわせ」でなくてもよい。小説やドラマのテーマになりやすいが、結果それは「しあわせ」を問うている。レジリエンス(立ち直り)は「やりたい」「たべたい」の復元力によるのだろう。

人生究極の目的〈幸福になる〉:アリストテレス「ニコマコス倫理学」

2023.2.15記す

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