子どもの、時間と空間の概念:秋山さと子
「空間」と「コミュニティ」
ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 『モモ』岩波書店 1976年
p158 モモがカシオペイアに初めて出会ったとき
//ところがふいに、なにかがそっとはだしの足にさわったような気がしました。まっくらでよく見えないのでかがみこんでみると、大きなカメが一匹、頭を上げ、口もとにふしぎな微笑をうかべて、モモの顔をまっすぐに見ていました。そのくろい、かしこそうな目が、いかにも話しかけたそうに、したしげにきらめいていました。//
p159
//はじめからそこにあったのにモモが気がつかなかったのか、それともたったいまあらわれたものかはわかりましたが、カメの甲らにほんのり光る文字が見えました。甲らのもようの一部が光って、文字のように浮き出しているのです。
「ツイテオイデ!」と、モモはようやく解読すると、びっくりしてからだを起こしました。
「あたしに言ってるの?」
けれどもカメはもう動き出していました。//
p176
//「ツキマシタ」と、カメの甲らに文字がうかびました。
モモは腰をかがめて、鼻のさきのドアにかかった名札をながめました。
マイスター・ゼクンドゥス・ミスティウス・ホラ//
※//マイスターは賢者にたいする尊称。名前のゼクンドゥスは秒、ミスティウスは分、ホラは時間と、それぞれ時間の単位を意味することばが使われている。//p177
※略して「マイスター・ホラ」で呼ばれる。マイスター・ホラの初登場場面。
p191 カシオペイアの名を、モモが初めて知ったとき
//「ああ、帰ってきたんだね、カシオペイア! 小さなモモはつれて来なかったのかね?」
モモはふりかえりました。置時計の森のほそい通り道に、銀髪のほっそりした老人が床にいるカメのほうに身をかがめているのが見えました。//
p192
//「ここよ!」とモモは声をあげました。
おじいさんはうれしそうに笑いながら、両手をひろげて近づいてきました。ところが一歩ずつ近づくごとに、その人はだんだん若くなってくるようなのです。ついにモモのまえまで来て、その両手をとり、うれしそうににぎって振ったときには、モモといくらもかわらないほどに若がえってしまっていました。
「ようこそ!」と、彼はたのしそうに言いました。「この〈どこにもない家〉によく来てくださった。モモ、自己紹介をさせていただこう、わたしはマイスター・ホラ──ゼクンドゥス・ミスティウス・ホラだ。」
「ほんとにあたしのことを待っててくださったの?」と、モモはびっくりしてききました。
「もちろんだとも! わたしはおまえをここにつれて来させるために、わざわざわたしのカメのカシオペイアをおくったのだ。」//
p198
//「カシオペイアはね、」と、マイスター・ホラは説明しました。「すこしさきの未来を見とおせるのだ。ずっとさきまでとはいかないが、それでも半時間くらいさきのことならね。」
「セイカクニ!」とカメの甲らに文字が出ました。
「ごめん、ごめん。」と、マイスター・ホラは訂正しました。「きっちり半時間だ。三十分さきまでに起こることなら、確実にまえもってわかるんだよ。だからもちろん、たとえば灰色の男に出くわすかどうかも、ちゃんとわかるんだ。」//
p224
//モモがまだそうやって考えこんでいると、下のほうから中央のまるい広場でなにかがごそごそ動くのがふと目に入りました。カメです! 食べられそうな草をのんびりとさがしているのです。
おおいそぎでモモは石段をかけおりて、カメのそばにしゃがみこみました。カメはちょっと頭をもたげて、おおむかしの光をやどしたような黒い目でモモを見つめましたが、すぐにまたゆったりと草をかみはじめました。
「おはよう、カメさん。」とモモは言いました。
甲らにはなんの返事も出ません。
「ゆうべあたしをマイスター・ホラのところにつれてってくれたのは、おまえだったの?」
また返事がありません。モモはがっかりして、ため息をつきました。
「ざんねんだわ、おまえはただのカメなのね。あのカメ……あ、なんていったっけ、名前をわすれちゃったけど、あのカメじゃないのね。すてきな名前だったんだけどな、でも長くて、かわってたわ。あんなのははじめて聞く名前だったわ。」
「カシオペイア!」と、ふいにカメの甲らにほんのり光る文字がうかびました。//
p258
//魚のフライがひときれ、マーマレードのパン、ソーセージ一本、小さなパイひときれと、レモネードいっぱい。おぼんのまん中のカシオペイアは、甲らにすっかりもぐりこんでいたほうがいいときめこんで、このメニューについてはなにも口を出しませんでした。//
※先に「大きなカメ」p158 とあった。おぼんが大きいのか? ちょっと想像が及ばない。
p265
//「でも、あしたはジジを探しに行きましょう。あの人なら、おまえの気に入るわ、カシオペイア。あしたになればわかるわよ。」
けれどもカメの甲らには、大きな疑問符がひとつあらわれただけでした。//
※未来がわかるとはいえ、カシオペイアには「あした」は30分以上で先すぎた。
p270 カシオペイアは、別れ別れになってしまうと未来予測
//するとそれへの答えのかわりに、カメの甲らに「ゴキゲンヨウ!」という文字が出たではありませんか。
モモはぎくっとしました。
「どうしたの、カシオペイア? あたしを置いて行ってしまうつもりなの? どうするつもりなの?」
「アナタヲ サガシニユキマス!」
このカシオペイアの説明に、ますますわけがわからなくなりました。//
※カメが去ったのではなく、別れてしまうことになると予見した。
p278
//ゆっくりと彼女はむきをかえると、ホールの出口にむかって歩きだしました。そのとたんに、おそろしい衝撃がからだをつきぬけました。カシオペイアまで、彼女は失ってしまっていたのです!//
※予見は実現した。灰色の男たちの仕業か?
p279
//カシオペイアをさがさなくちゃいけない。でも、どこをさがす? いったいあたしは、どこではぐれたのかしら? ジジと車で走っていたときには、もういなかった、それはたしかだ。じゃ、ジジの家のまえだ! このときふとモモは、カシオペイアの甲らに「ゴキゲンヨウ!」とか、「アナタヲ サガシニユキマス」とかいう文字がうかんでいたことを思い出しました。やっぱりカシオペイアは、あのときふたりがすぐにはぐれてしまうことがわかっていたのです。そしていまはモモをさがしているはずです。でもそうだとすると、モモはどこにカシオペイアをさがしに行けばいいのでしょう?//
p303
//「すぐ緊急警報を出せ! そのカメをさがさなければならん。カメというカメをしらべろ! なんとしても見つけるんだ! かならず、かならずだぞ!」
声はしだい消えて、しずかになりました。すこしずつ、すこしずつ、モモは意識をとりもどしました。たったひとりで、大きな広場に立っています。そのうえを、まるで底しれぬ虚空から吹いてくるようなつめたい風が、いまいちど吹きぬけてゆきました。灰色の風です。//
p304 再会
//そのとたんに、はだしの足になにかそっとさわったものがあります。モモはぎくっとして、そろそろとしゃがみこみました。
するとどうでしょう。目のまえにカメがいるではありませんか! そしてくらがりの中に、ゆっくりと文字が光りました。
「マタキマシタヨ」
とっさにモモはカメをつかむと、上衣(うわぎ)の中にかくしました。そして立ちあがって、あたりのくらやみをうかがいました。灰色の男がまだ近くにのこってはいまいかと、心配だったのです。//
p310
//もうここまでくれば、マイスター・ホラのところにたどりつくまで、あとひと息です。
「ねえ、おねがい。」と、彼女はカシオペイアに言いました。「もうちょっとはやく歩けない?」
「オソイホド ハヤイ」
カメはこうこたえると、これまでよりもっとのろのろと這いました。//
p312
//ようやくモモは〈どこにもない家〉につきました。みどり色の大きなおもたい金属の門があきました。モモはその中にとびこみ、石像のならぶろうかをかけぬけ、つきあたりの小さなドアをあけてすべりこみ、無数の時計のある広間をつっきって置時計にかこまれた小べやにたどりつくと、きれいなソファーに身を投げてクッションに顔をかくしました。もうなにも見たくありません。なにも聞きたくありません。//
p313
//モモは目をあけました。ソファーのまえの小さなテーブルに、マイスター・ホラがいます。彼は心配そうな顔で、足もとの床のカメを見おろしています。
「おまえは、灰色の男たちがあとをつけてくることは考えられなかったのか?」
「サキノコトハ ワカリマス」と、カシオペイアの背中に文字が出ました。「アトノコトハ カンガエマセン!」
マイスター・ホラはため息をついて頭をふりました。
「ああ、カシオペイア、カシオペイア──おまえはわたしにとっても、なぞみたいにわけのわからないことがよくあるよ!」//
p325
//「カシオペイアも時間の花をもらえるの?」とモモはたずねました。
「カシオペイアはいらないんだ。」と、マイスター・ホラはカメの首をやさしくかいてやりながら説明しました。「時間の圏外で生きているのだからね。じぶんの中に、じぶんだけの時間を持っている。だからなにもかもが静止してしまっても、カシオペイアは世界のはてまでだって行けるんだ。」//
p327
//モモはカシオペイアをかかえあげて、ぎゅっと抱きしめました。最大の冒険はもうはじまったのです。あともどりはできません。//
p346
//カシオペイアもカシオペイアなりに、おおいに奮戦しました。むろん足はのろいですが、追手がどこに来るかがまえもってわかるので、その場所にさきまわりして道のまんなかにがんばっていれば、灰色の男はけつまずいてころび、あとから来たものがさらにそのうえにたおれるというしだいです。こうしてカメはなんども、もうすこしでつかまるところだったモモをすくいました。もちろんカシオペイアじしんも、ときにはけっとばされたいきおいで、ふっとんで壁にぶつかりました。でもそれでもめげずカシオペイアは、じぶんの未来を予見しては、そのとおりのことをやりつづけました。//
p348
//モモの時間の花のさいごの花びらが散ったかとおもうと、にわかに嵐のようなものがまき起こりました。雲と見まごうほどの時間の花がモモのまわりでうずを巻いて飛びながら、とおりすぎてゆきます。あたたかな春の嵐のようです。でもそれは、自由となった時間の嵐なのです。
モモは夢の国にでもいるここちであたりを見まわしました。すると足もとのカシオペイアが目にとまりました。その甲らには文字がきらめいています。
「トンデオカエリ モモ トンデオカエリ!」
これが、モモがカシオペイアを見たさいごでした。//
p352
//そのとき、マイスター・ホラはなにかが足にさわったような気がしました。めがねをはずして下にかがむと、足もとにカメがすわっていました。
「カシオペイア。」と彼はやさしく言って、カメの首をなでてやりました。//
p353
//カシオペイアはよたよたと這っていって、しずかなくらいものかげにもぐりこむと、頭と手足をひっこめました。その甲らには、この物語をここまで読んできた人にしか見えない文字が、ゆっくりとうかびあがりました。//(おわり)
役にも立たない遊び:時間どろぼう
灰色の…… に、異議ひとつ
子安美知子『「モモ」を読む』を読む
伴走者
『モモ』岩波少年文庫版 2005年
p409 //エンデの人柄にふれた日々// 佐々木田鶴子の執筆
//現代の問題を表面的にあつかうのではなく、むしろ普遍的な人間の問題として、より根源的な解決を求めようとしたのがエンデの作品であるのでしょうが、それを育んだのは、ベルリンのような政治都市でもなければフランクフルトのような経済都市でもない、エンデが親しんだミュンヘンという町であり、アルプスに近いスイスやバイエルン州ならではの、単純でありながら純粋にものを尊重しようとする伝統も寄与しているように、わたしには思われるのです。 2005年5月//
2023.11.8記す