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子安美知子『「モモ」を読む』学陽書房 1987年
+ 副題:シュタイナーの世界観を地下水として

p11
//物質だけが確かで、精神すらも物質に由来する産物だ、とみなす唯物論は、絶対にまちがっている。物質界の紙や机やペンとおなじ現実性をもって、精神界にはさまざまな存在が現存する──シュタイナー学校の教師も、アントロポゾフィー病院の医師も、アントロポゾフィー農場の農民も、この思想に根ざして働いています。そしてその認識をよりたしかなものとするために、一方で内的な修行の道を歩んでいます。//
※アントロポゾフィー……人智学。対して「神智学」はテオゾフィー。
p10 シュタイナーは、(ミヒャエル・エンデの父が//「天使も悪魔も実在する」という確信で//p9 信奉していた)神智学から──
//人智学に変った決定的な新しさは、神秘修行にさいして個的な人間の自我を重視し、さめわたった現代的意識で超感覚界の認識を得るという点にあります。//

p9
//戦後エンデはシュトットガルトのシュタイナー学校に転入して、卒業前の二年間を過ごしますが、この事実だけでエンデとシュタイナーの関係をうんぬんするのは早計です。エンデが意識的にシュタイナーの著作を読みはじめるのは、むしろ二十代の後半になってからです。以来三十年以上読みつづけて今日にいたっているという、そのことのほうが決定的に重要です。//

p115~127 第9章のタイトル//「ほかの力」の助け──やってきた使者、カシオペイア//
p115
//シュタイナーは、人間の思考、感情、意志の三活動について、
思考明瞭にさめて意識化されたものだとすれば
意志眠っていて無意識なもの
感情その中間にある、と言っています。
それでも意志はたしかに存在し、意志自体としては自身の方向を知っているのです。
夜な夜な、宇宙の耳たぶの中にいて、聞こえないものを聞き、見えないものを見る力を育ててきたモモ、ないし私のなかの自我は、いまやいよいよひとつの境界を超えでる方向に意志しているのではないでしょうか。そのとき、じっさいに道案内〔カシオペイア〕が現われました。//

p119
//エンデは、見るということを訓練した人です。モモの聞く力のところ〔本書第1章〕で詳述したのとおなじ意味で、見ることをも徹底的に修行し、対象がみずからの本質を開示するさまに見入る力をやしなってきた、と言えましょうか。それは直観の力と言いかえることもできます。アントロポゾフィーの修行では、直観ということが非常に重要な目標になりますが、エンデも直観重視の姿勢をいたるところで打ちだしています。//
p120
//「目の前に一本の木があるとする。それをどのようにみるか」
と、エンデ氏は設問した。
「根、幹、葉など生物化学的な生成過程の集合体とみることもできよう。また、ゲーテのように、種子から芽が出て、樹木に生長し、それが再び種子にかえる全体的過程のなかに、一本の木を置いて考えることもできるだろう。どちらもそれぞれ正しい見方だが、一つの現象の背後にひそむ本質をさぐるためには、ゲーテ的視点が必要だと思う」(『欧州知識人との対話』)
 二十人の現役ヨーロッパ知識人を取材した朝日新聞社の和田俊氏は、エンデの章に「現象の背後にある本質を透視」とタイトルをつけています。突拍子もない空想で透視したつもりになるのではなく、日ごろつみあげている観察力と認識眼を総動員しつつ対象に即して眺めぬくことが透視につながる、とするいわばゲーテ的視点です。//
※これには、(あっそう!)という心当たりが、わたしにある。20代初め、自然観察を始めた初心者の頃、有馬忠雄というある高校に先生がしきりに言った。「見たまま、そのままを受け止めなさい」。その意味がもとよりわからなかった。この〈ゲーテ的視点〉に符合する、 と思ってしまった。

p121
//これまでに見てきた登場人物を復習しますと、灰色の男たちは物質世界を、ジジやベッポやそのほかの友人たちは魂界(ゼーレ)を体現するものでした。そしてモモは、おそらくは精神(ガイスト)の世界に通じる道を行きつつあるであろう自我存在のようでした。カシオペイアやマイスター・ホラは、これら三者とはまたちがう別種の存在です。それこそもうまったく人間の五感の及ばないところで、人間に力をかしてくれる存在たちといわなければなりません。//

p126 「ツイテオイデ!」を受けて
//文字を読む──カメとモモとの交信では、このあとずっとこれが重要になってきます。モモは、いつもカメの甲らに光る文字によってその行為を導かれていくことになりますが、これはもちろん文字通りの文字ではなく、超感覚的なメッセージです。そういうメッセージの意味でエンデが「文字」という表現を用いたり、さらにそれを「読むこと」の修行を言ったりしているところも、これまた少なくありません。//
p126
//『モモ』でのモモは、エンデの世界観がいわば理想的に体現される自画像と見てよく、だからモモは文字の解読をなしとげるところまで到達します。//

三木成夫のいう “すがたかたち” ──原形を求めて:ゲーテの形態学

※『モモ』の文学論をするつもりはないので、ここで放棄
2023.11.20


 カシオペイアには惹かれるが、シュタイナーにはついていけない。この類いの本になると、解説・説明・解釈あるいは論説が対比(たとえば、エンデとシュタイナー。ほかにもある)にならざるを得ない。肯定はもちろん、否定であっても、参考にするために必要なことだ。「第1章 人の話を聞く力」、まさにこれに相当する。シュタイナーの言葉に耳を傾けるということだが、「ついていけない」というのが正直なところ。理解は無理でも、とりあえずは「受け入れる」ことが肝要。そのためにいくばくかの時間を費やすことになる。
 シュタイナーのいちいちの理論を受け入れられたとしても、その「いちいち」が多い。まあいえば、目次のそれぞれがけっこうヒントになり、勝手な解釈になってしまうが、考える材料にはなる。いまはそれで十分なので……。

カシオペイアが導く『モモ』
役にも立たない遊び:時間どろぼう
灰色の…… に、異議ひとつ
伴走者
子どもの、時間と空間の概念:秋山さと子

2023.11.22記す

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