3歳の自立 おみその4歳 5歳の伸びしろ 3歳未満は……
満3歳では、自力でどれくらい歩くのだろう。300メートルほど歩くと抱っこをせがむこともあれば、延々と1キロほどを歩くこともある。興味次第か? 2キロの道のりを歩いている”3歳児”とつきあったことはあるが、満年齢は4歳だったかもしれない。上述とは別の、同じ3歳児が500メートルを歩いたとき、楽しかった思いを込めて「〈遠い〉ところへ行った」と誇らしく話した。
〈遠い〉という言葉を発しても〈近い〉という表現を私は聞いたことがない。保育士(おとな)がつかう言葉をその意味するところでわかっているのだろう。しかし、対語としての〈近い〉はまだのようだ。声かけの大切さを悟る。
保育園など集団で歩くとき、先生が手をひくには限りがある。手をひいてほしいけれど、明らかに遠慮している子がいる。一つのてのひらに2つの可愛い手が寄ってくることもある。お互い歩きにくい。おしゃべりしながら歩くが、抱っこをせがむ子は、まずいない。しかし、親子だとそれはあっという間だ。50メートルも歩けば「抱っこ!」。ベビーカーが目に入ればなおさらだが、ベビーカーに手荷物が乗っていれば子どもは歩く。あるいは、ベビーカーを押すお手伝いをする。気分屋さんで、じつは歩くのも楽しい。
3歳、ひとりや友達といるときは平気で歩いてすごすのに、親がそばにいるとなんでもしてもらいたい。靴もはかせてもらいたい。服も着せてもらいたい。でも、自分で靴もはけるし服も着られる。お手伝いも好き。自立をお手伝いするのが、おとなの役割かなと思う。
おみその4歳 3歳の自立 5歳の伸びしろ 3歳未満は……
なんでも自分でやりたがるのは3歳の特徴だ。自己中心の気分屋さん。しかし、4歳になると周囲を観察するようになる。1歳でも、大きいおねえちゃんやおにいちゃんがしていることをじっとみていて真似をしようとする。それとは違う。〈同じこと〉がしたい。今ではあまり見かけなくなったが、まちなかで遊んでいる子どもの集団に幼い子がひとり・ふたりとまじっていた。鬼ごっこで逃げまどうなかにいたその幼い子は4歳や5歳だった。わたしが子どもの頃は、彼らを「たまご」と呼んだ。遊び始める前に「たまご」を宣言してもらう。つかまっても鬼にならなくてすむ。子どもの遊びを書いているエッセイなどでは「みそっかす」縮めて「おみそ」というのもある。
みそっかすとして子どもの集団にデビューするのが4歳ということになろうか。異年齢保育を保育園で実行すると、3歳/4歳/5歳をさす。しかし、かつて普通にあった子ども集団には年長者が含まれ、小学校の高学年がいた。園では「5歳」が異年齢の最年長なので、先生がその役を引き受けることが肝要ではないか。
先生が常に遊び仲間の年長を演じることができれば、敢えて3歳・4歳を交えなくとも、5歳児クラス単独で異年齢保育は実現する。
つまり、みそっかすの呼称は侮蔑的だが、出来る/出来ないを包含して、仲間に加えるというやさしさ、あるいは掟(おきて)を学ぶ輝かしいスタートなのだ。
5歳の伸びしろ 3歳の自立 おみその4歳 3歳未満は……
3歳、4歳は親から離れて、園や祖父母の家でひとり泊まりはまだ難しい。でも、5歳になるとドキドキ、初の体験になる機会になるかもしれない。
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ツバメやヒヨドリなど、羽がそろってきている幼い鳥が路上にいる場面にでくわすかもしれない。さわらないで! 人間の匂いがつくから。でも、猫に襲われるかもしれない。そんなときは、猫を見張って幼鳥の番人になろう。何かの拍子に巣に戻れなくなったと推察される。ということは、巣が近くで親鳥もすぐ近くにいる。親鳥は我が子を探しているはずだ。そして、我が子を見つけると「ピヨ!」「ジュジュ!」と声をかけ、親を見つけた子は、なんと自分で飛べる!
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5歳になると、階段を二段跳びするような成長のしかたをみせる。実際、二段跳びするかどうかは、親鳥の呼びかけと同じだ。保育ではこれを援助という。3歳、4歳でも二段跳びするかもしれない。しかし、この時期は、「できるよ!」と親に見て欲しいから。5歳のときは違う。親に見て欲しいのは同じだが、〈できるような気がして〉やってみようという内面の発達が自身を行動に促す。だから、〈できるような気がして〉を確かめる結果となり、親に見て欲しい以上に自尊心が育まれる。
〈できるような気がして〉──これを主体性という。主体性は、自身で気づくこともあれば、おとなに促されて〈やってみようかな〉と気づく。友達のしていることを自分もしてみたいと思うようになる。つい先程まで、ザリガニがさわれない・さわりたくないと態度でも表していたのに、友達の初めてさわれた体験を目の当たりにして、意思とは関係なく「さわりたい!」と声を発してしまう。5歳の伸びしろは、自身の意思から有効になるだけでなく、友達や、親・おとなの働きかけ(援助)から大きく影響を受ける。
3歳未満は……
あかちゃんの不思議
+ どうぶつから人間へ
++ 三本ストロー法
生まれ出たそのときから母がわかり、他と区別できる。母に身を寄せるワケは、母を認識しているからではなく、わが身を守る進化の履歴が脳の深部に蓄積されているからだ。満1歳の誕生日を迎える頃、つかまり立つ。ふらついても手が出る。目標に直線で向かっていた子は、やがて障碍をさけるようになる。
※ 開一夫『赤ちゃんの不思議』読書メモ
※ “どうぶつ”として生まれた & いのちのはじまり
※ 三本ストロー法 ── ”にんげん” になった!
「ハートスケール」というヒント
+「間主観性」の理解
おもに母とだが、保護者と一体で自己を確立していくプロセスは、すでに始まっている。これを「間主観性」という。からだとこころを間主観性というしくみで守られながら、乳児は「環境」という刺激に「みずからのモノサシ」をもちあわせるようになる。モノサシの生成は、あかちゃんの「遊び」といえないか。つまり、あかちゃんは遊びを通して固有のモノサシを得る。2歳半を節目としてモノサシは「かたち」を為し、道具として使いうる。
※ ハートスケール
※「主体」の理解は さまざま & 間主観性
2歳半という節目
+ 主体性の意味
+「こども」とは、だれか?
モノサシを得た一個の人物は、「みずから」という正体に向き合うことになる。他者をもって、そこに「みずから」を見る。モノサシの成長に伴って、主体性という意味が問われることになる。「こども」という輪郭が鮮明になる。
※ 二歳児の形容を「ブラブラ期」に:川田学
※「こども」とは、だれか?& 主体性
2023.9.18Rewrite
2019.5.23記す