|||||「主体性(主体)について、理解」を試みる |||

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主体性……//主体的に行動しようとする態度。//『新明解国語辞典第三版』
わたしは、「主体に属する心身の属性」と提案したい。

1)スタートラインは同じ

 先住民族のあかちゃんは、裸(はだか)または裸に近い状態で育てられる。一方、日本では産着(うぶぎ)に始まる。アマゾン流域の先住民ヤノマミ族を取材したNHK取材クルーは防寒着が欲しくなるほどに寒かったという。住居は常に火が灯され、あかちゃんは裸だった。生まれたばかりのあかちゃんについて、地球上それぞれの気候帯によって、あかちゃんの生存につながる体温保存生理は異なるのだろうか。
 ライオンのあかちゃんもヒトのあかちゃんも、かわいい。動物行動学者ローレンツはこの「かわいさ」をベビーシュマと名付け、その特徴によって親はあかちゃんを保護する。あかちゃんが母に抱きつき、母はあかちゃんを懸命に育てる。幸せホルモンの異名があるオキシトシンが母に(父・男も)放出される。この心理と行動は大脳皮質に格納された大脳基底核によるものだという。進化の過程で哺乳類誕生時(2億2千万年以前)に起源があるという。だから、ライオンもゴリラも育児に専念する。
 言語学者チョムスキーは胎内で母の音声を学習しているといい、ドイツの乳児はドイツ語の抑揚で、フランスの幼児はフランス語の抑揚で泣くという。
 出生において、地域の特性はあるものの、人間(ヒトとして)のスタートラインは「同じ」ではないかと、わたしは思う。

2)間主観性と自己

 産着(裸)以降に土地の文化文明が反映される。日本では添い寝だが、ヨーロッパでは両親とは別に寝かせられる。「しつけ」に至っては文化反映の強度が増す。とはいえ、0歳・1歳に「しつけ」は通用しない(と思うのだが……)。0歳・1歳は主体に沿って育てられる。「主体性」を重んじて育てられる──と言い方はそぐわない。
 2歳では、どうだろうか。“イヤイヤ期”とも名付けられる時期で、主体が主張をのぞかせる。親は、ときに困り果てる。後段に記すが、2歳のイヤイヤはまだ「自己」ではない。「間主観性」という保護者(主に母親)と自己との関係性が表出される。鯨岡峻は相互主体性とも言っている。わたしは、誕生からおよそ2歳半ばを《第1次主体形成期》としている。
 この第1次主体形成期を脱すると「主体」が保護者の眼に表れてくる。ここで注意が必要、早合点しない。「主体=自己」ではない。主体の表出や自己認識までには、まだ時間を要する。

3)他者出現と自己認識

 1歳未満であっても関心があるかのような表現を行う(「指さし」など)。2歳では向き合っている”ともだち”と同じ空間で遊ぶ。その遊び仲間を「ともだち」と認識しているだろうか。「ともだち」と言える関係性はあるのだろうか。おそらく「ない」だろう。
 3歳になって、たとえば、自分A、他者B、他者Cとしたとき、BとCが遊んでいる場面を目撃して同じことを自分Aもやりたいと刺激される。こういう関係性のとき、やっと「ともだち」と言えるのだろう。これより友達の輪がひろがる。
 友達は必ずしも人間とは限らない。犬や猫ときには「むし」も。花やお人形も友達に加えられるかもしれない。停車している電車が動き出すと「バイバイ」と声を出して見送ることもある。自分を囲む周囲によって様々な刺激を受け、やがて自己とは違う他者とコミュニケーションすることになる。
 「心の理論」では、「他者」を認めるようになるのは4歳を待つことになると説かれている。他者を認めることで、「自己」を意識するようになる。他者が先で、自己認識は「あと」なのだ。
 こうした発達の過程は、自己の努力や学習によるものではなく、生理的に説明されている。個人差は、あろう。しかしながら、概ねこうした過程を経て4歳・5歳を迎える。地球上のどの地域であっても、子どもはこのように育つ。他者即ち「ともだち」を得て、子どもは群れ、遊びの集団を形成する。

4)主体は、4歳までは成立しない

 3歳または4歳から始められる早期教育については、ここまでに記したことに留意する必要があると思われるが、ここでは指摘するだけに留める。
 ところで、保育における養育または教育の指針では「主体性」が主要項目になっている。「主体性」または「主体」を理解するには、「心の理論」における自己と他者の理解が必須であり、その認識に基づいた実践(施設型保育など)が求められる。したがって、主体または主体性という用語を乳幼児に対して使うときは、年齢に配慮がなくてはならない。「主体性」を尊重した養育や教育は、「心の理論」によれば、個人差を念頭に置くことで、4歳までは曖昧で、5歳で成立するということになる。
 乳幼児のその発育伸長は「めざましい」と、それにかかわる保護者や保育者は認識しているはずである。「5歳」と「5歳児」を区別し、「5歳児(年長児)」については6歳を含む。6歳・7歳は小学1年生に相当する。主体性を発揮して、遊びに夢中になる年齢は、5歳以降この6歳・7歳であろう。

5)主体が果実を生む

 学齢に達することで、子どもは試練に耐えねばならなくなる。子どもの集団(群れ)は「遊び」を育むが、学校教育の現場は「子どもの集団」を組織し流れる方向を定めようとする。学校教育は主体性の実践をめざしているはずだが、大きな制約(学習課程とその成果)が一方にあることは確かだ。学力は主体性の涵養に必要であっても、主体性は人格形成に必須であり、学力優先であってはならないと、わたしは思う。
 このように思考を深めていくと、主体性を重んじるとされながらも、あるいは、「個性(=主体)を尊重する」と謳われながらも、その実現は実態を伴っていないのではないか。
 では、主体性は、どうすれば保障されるのだろうか。わたしは「遊び」の実践にあると考えている。

子どもが今日共同のなかでなし得ることは、
明日には自分ひとりでなし得る

 心理学者ヴィゴツキーのことばである。「発達の最近接領域」という学習理論である。
 〈共同のなかでなし得る〉は、集団で遊ぶ場面を想定してよいし、教室での学習でもよいし、体育やスポーツにもあてはまる。子ども自身(主体)が「やりたい」気持ちを主体的に持つことで結果を出す、ということであろう。

6)「やりたい」が主体をつくる

 脳の発達は25~30歳で最終段階に到達するという。イメージとして捉えにくいが、不断の努力で未来が拓かれるということだろう。そこで、《第3次主体形成期》を想定し、高校2年3年~およそ25~30歳をあててみた。アイデアにすぎないけれど……。
 では、《第2次──》はどこに……? 「こども」から「おとな」になる移行期として、小学3年4年(8~10歳)をあてている。
 主体(主体性)のよりどころ、それは「やりたい」という挑戦する気概にあるのではないか。

(関連)
「こども」とは、だれか?
※内容は、ほぼ同じ。

2024.2.1記す

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